◆国道で断ち切られた痕跡◆
▲街道跡の先は国道142号
正明寺の近くで桝形がどの辺りにあったか調べるため、私はたまたま出会った老婦人に尋ねました。すると、ご婦人は「家の裏手の田畑のなかに江戸時代の中山道の跡が残っているから」と場所に案内してくださり、説明してくださいました。
明現在の舗装されている中山道は、明治以降につくられたもので、しかも急な坂を削って緩やかにしてあるそうです。
老婦人は、ご自宅の近くの小径の西にある田畑に向かいました。「ケヤキの下の馬頭観音の脇を通っていたんですよ」と言いながら。
▲ケヤキまで続く農道が街道跡だという
▲街道脇の道祖神か、それとも馬頭観音か?
教わった通りに中山道の痕跡を探ってみました。
大ケヤキから南西に向かって50メートルほどは、農道として街道跡は残されていますが、そこから先は畑のなかに消え去っています。さらにその先には、丘陵斜面を切通して国道142号が通っていて、地形はすっかり改造されています。
中山道は、県道を斜めに横切る形で松並木までつながっていたのですが、国道が街道の痕跡を完全に断ち切ってしまっています。
そこから、北に向かって街道跡をたどってみました。
街道の幅は6尺だったそうです。
国道のすぐ上の畑から大ケヤキまでは草原のなかの農道が続いています。その農道の脇に、すっかり風化して馬頭観音か道祖神か判別できない古い石仏があります。江戸時代に中山道の芦田宿を行き来する旅人も、この石仏を道脇に見ながら通り過ぎたのでしょうか。
この辺りで、芦田宿の入り口にある、鋭く天を衝く正明寺の本堂屋根が見えてきます。
ケヤキを過ぎると30メートルほど草道が続き、やがて西に曲がって国道に向かって降りていく小径になります。
幅6尺ほどの農道はそこでなくなり、その先には田畑の畦道が続いています。
その畦道も、ヒバかサワラの木の先でこれまた田畑のなかに消えていて、街道跡をたどることはできません。
かの老婦人は「その先の住宅の敷地で右に曲がってクネクネしながら正明寺の前の木戸まで行ったんだよ」と教えてくれました。
▲中山道跡から見える正明寺の本堂屋根
右側最下端の写真は、正明寺前から北に向かう小径ですが、往時の中山道もこんな感じで芦田宿に連絡していたのではないでしょうか。だとすると、桝形はこの辺りにあったようです。
⇒立科町・芦田宿の絵地図
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