現代日本の歴史は、高度経済成長のあとの停滞、その後にバブル経済とその破綻、あげく少子高齢化の急速な進展・・・と、生活の場であると同時に文化財としての街並みを保存するうえでは、きわめて困難な課題を突きつけるものでした。
しかも、日本の伝統的な家屋は木材と紙などでできているため、容易に消失しやすいものです。
そのなかでも、信州の中山道沿いの街々は街並み景観保存のために奮闘してきました。
降水量の多い日本では、近代的な鉄筋コンクリートはきわめて速く腐食や劣化が進むため、40年ほどで無残な姿になってしまいます。ところが、日本の風土に合った伝統的な木材建築は、丁寧に手を射て続ければ数百年以上も持つのです。
限られた数ではあっても、伝統的な建物が保存されている街の景観は、懐かしさとともに長く生き残ってきたものが持つ力強さを感じます。
▲出梁造りと袖壁の様子がよくわかる
芦田宿の中心部でひときわ目立つ大きな建物は、金丸土屋旅館。江戸時代の文化年間から旅籠を営んできました。大屋根の上の煙抜きの小屋根やガラス張り窓など、明治以降の改装もありますが、往時の基本構造をよくとどめています。
金丸土屋は今でも旅館を営んでいます。
その斜向かいにある味噌・醤油醸造業の酢屋茂も、江戸時代のものではないかもしれませんが、なかなかに古い建物です。
醸造に役立つ酵母菌などは、家屋の柱や壁、天井に住み着いているので、古い建物の内部構造を保存することが品質を保ち改善するための条件になるわけです。
▲酢屋茂の土蔵風の工房・倉庫
金丸土屋も酢屋茂の建物はともに、土台の構造が街道の傾きに対応したものになっています。歩いていてもさほど道路の斜度は感じませんが、笠取峠から下ってきた坂道がまだ続いているのです。
芦田中央交差点の脇にあるのが、本陣問屋土屋家です。
土屋家の右京野左衛門は、岩間忠助とともに芦田宿の開設に努力したそうです。17世紀末、旧芦田家の家臣だった2人が芦田宿の開設を願い出ました。その後の宿場集落の建設でも指導的な役割を果たしました。
土屋家はこの宿の本陣を務め、街道の貨客の輸送継立てを差配する問屋も兼務していた上に、酒造も手がけていたそうです。
土屋家の門は現在は変形版の長屋門ですが、往時は薬医門だったのかもしれません。
▲右手は本陣の宿泊棟
▲町区コミュニティセンター
▲ふるさと交流館 芦田宿
街道沿いで土屋家の先には町区のコミュニティセンターとふるさと交流館 芦田宿があります。
この辺りは、高度経済成長以降にできた街並みです。
芦田宿めぐりの案内・情報が必要な場合には、ふるさと交流館を訪ねてください。親切丁寧に対応してもらえます。
▲緩やかに曲がる旧街道
▲この先には茂田井間の宿がある
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