▲端正な造りの天守
◆古い高島城は茶臼山にあった◆
▲三ノ丸御殿裏門(川渡門)
現在の高島城から北東に1.5キロメートルほどのところに茶臼山の城跡があります。これが室町後期からの古い山城としての高島城――茶臼山城とも呼ばれる――だそうです。
史料に記録として登場するのは15世紀末ですが、諏訪湖畔では諏訪大社と結びついた豪族領主、金刺氏と諏訪氏との勢力争いが15世紀のはじめから続発していたので、この城砦は15世紀のはじめ頃には築かれていたかもしれせん。
▲池は講演の樹木を映している
▲本堂と庫裏が直角をなして隣り合う
◆浮島に築かれた城◆
現在地に高島城が築かれたのは1590年代だそうです。
城の地理的環境を見るために、下のグーグルマップを航空写真または地形ヴァージョンにしてみてください。
高島城が位置するのは諏訪湖の何東岸で、その平原は小淵沢、富士見町、茅野市方面から北西方向に流れ下る水がつくった盆地地形です。八ケ岳西側や南アルプス北側からの降水が集まって諏訪湖に注ぎ込むのです。
現諏訪市(上諏訪)は、河口近くで何本もの河川が諏訪湖に分流して注ぎ込む三角洲の集積地です。高島城はそういう三角州のなかでもおそらくひときわ高い浮島城の洲に築かれ、それには周囲の水路建設や干拓がともなっていました。
つまり周囲一帯は河口の湿地帯・湿原で、石垣や土塁、天守や御殿など重い構築物を建てるのがきわめて困難な地形でした。そこで、巨大な筏状に木材を何層にも組んで浮島に敷き詰め、その上に土盛りを施して造成したそうです。建物屋根は軽くするため銅葺きだったとか。
ところが、それでも城郭の土台は重みで沈んだり歪んだりして、幕末までに頻繁に土台の手直しと構築物の修復をおこなったことが記録されているのだとか。
▲多門跡の赤い大日傘
現在、天守と公園がある場所は本丸と南ノ丸で、全体で方形をなしていて、周囲を湖と連絡した堀水路で囲まれていました。その北側から東側を二ノ丸が囲み、さらにその北側に三ノ丸、一番北側に衣ノ渡曲輪がありました。
衣ノ渡曲輪の先は湖面で、城郭全体が埠頭のように湖面に突き出ていたそうです。城下町は城の南側の建設されたようです。
▲冠木門を見上げる
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