姨捨の棚田地帯は、姨捨駅の東側にある3筋の小さな谷間からなる扇型(半径約800メートル、中心角約90°)に広がる斜面にあります。ここには、日本ではじめて文化財指定を受けた棚田農耕地が連なる素朴で美しい里山景観が広がっています。
麓の千曲川沿岸から眺めると、棚田は冠着山 (標高1252m)から三峰山(標高1131m)に続く山並みを背景にしています。この山並みは旧麻績村の聖山(標高1447m)まで続く高原をなしています。
姨捨の棚田は、千曲川と犀川流域に広がる善光寺平を一望する標高460~560メートルmにいたる斜面にあって、総面積はおよそ約40ヘクタール、そこに約1500枚の棚田が残っています。
16世紀半ばから開拓された棚田は、ことに江戸時代には和歌や俳句、紀行文、さらに絵画の題材にこぞって取り上げられました。1688年には松尾芭蕉の来遊がありました。
▲5月、若葉が萌える頃の観音堂
▲11月はじめ、錦繡に包まれる観音堂
姨捨は、『古今和歌集』(905年)では「姨捨山の月」と歌に詠まれ、また『大和物語』(956年)には棄老説話が収録され、古くから月の名所として数々の歌が詠まれてきました。世阿弥作の狂言本『木賊』(1578年)には、田毎の月が登場するので、棚田の開発がかなり進んでいたものと推定できます。
『善光寺道名所図会』にある「放光院長楽寺十三景之図」では、冠着山、更級川、姨石、姪石、甥石、小袋石などが描かれ、棚田と長楽寺は観月の名所として紹介されました。歌川広重『六十余州名所図会』でも、棚田と長楽寺は名月の里として描かれています。仲秋には、千曲市と坂城町と上田市との境界にある鏡台山からのぼる月がことのほか印象的です。で、長楽寺の歴史については、明治維新の廃仏毀釈の騒乱のなかで失われてしまったそうです。
⇒長楽寺境内の案内絵地図を見る
▲更級川上流の谷間の対岸(棚田の丘)からの長楽寺の眺め: 左から月見堂(観月堂)と月見殿
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