▲麻績宿の石標
ごく大雑把に善光寺街道の地理について言うと、善光寺街道は松本平から山間を抜けて千曲川沿いの善光寺平(更級または埴科の里)にいたる道です。
この街道の道筋には難所の峠が3つあります。松本から歩いて一つ目は刈谷原峠、二つ目は立峠、三つ目は猿ケ馬場峠です。麻績宿は猿ケ馬場峠の南麓に位置しています。そして、麻績宿から峠を越えて稲荷山宿までは標高差で300メートル登って600メートル下るという難路です。
さて、9世紀ごろまでは中央の大和王権と地方とのあいだには文化や文明の圧倒的な格差があったのですが、各地方で農村や耕地の開発開拓が進み、地方ごとに豪族や有力者が富と権力を蓄えるようになると、王権の権威は衰退し律令制は解体していきました。官道制度は衰退し、宿駅だった集落(都邑)は各地方の統治の拠点となっていきます。
大和王権が独占していた権力は貴族や有力寺社によって分割され、各地方(公地公民)は貴族や寺社の荘園に分解し、集落は荘園統治の拠点となっていきます。
▲家屋と道のあいだに前庭がある
▲前庭の植栽が美しい
こうして平安時代の11世紀には麻績郷は、伊勢神宮内宮の荘園――御厨――となっていました。1038年には、集落の外れには伊勢神宮の祭神(天照皇大神)の分霊が勧請され、神明宮が建立されました。
まもなく荘園の警護や管理を担っていた有力者=地頭層が富や武力を蓄えて、上皇や公家、寺社のあいだの勢力争いの先兵となり、やがて京洛畿内の権力から自立して領主となっていきます。地頭領主が分立割拠する時代になっても、伊勢神宮は強い権力を保有し荘園(御厨)は保持し続けました。
鎌倉時代には、麻績郷は幕府御家人の伊賀氏の所領となり、かたや御厨には伊勢神宮の荘官として小笠原氏が赴任して、領地を管理しました。幕府の権威が衰退すると、伊賀氏は麻績を去り、小笠原氏が麻績姓を名乗って一帯の領主となったようです。
麻績氏は、麻績集落の北側の尾根の峰に城砦を築いて、所領支配の拠点としました。麻績集落は中世風の城下町として整備されることになりました。しかし、やがて戦国時代には、村上氏の権力がこの地にも拡張し、服部氏が城主として派遣され、麻績姓を名乗ることにてきました。
ところが、武田家の信濃侵攻によって服部氏は越後に追われ、武田麾下の青柳氏が麻績姓を名乗ることになります。武田家は猿ケ馬場峠を往来する道を開削整備したとか。
その後、徳川家のもとで幕藩体制が確立され、麻績は松本藩の指揮下で善光寺街道の宿駅となりました。
▲麻績氏の城砦があった城山(画面中央)
私が一見したところ、現在この集落にある和風の家屋は江戸時代のものではなく、昭和期に伝統的な造りを受け継ぎながら補修ないし改築されたもので、明治から昭和40年代まで盛んだった養蚕に適合した二階屋ではないかと思われます。
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