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長野県東筑摩郡麻績村
  麻績村は姨捨山の西にあるのどかでで美しい山里です。麻績は、古代律令制度下の官道宿駅として名が残る古い集落です。麻績部の民が暮らす村でした。戦国時代には麻績服部氏の城下街として栄えていました。
  江戸時代には善光寺街道(北国街道西脇往還)の宿場街となりました。

  写真は、麻績宿本陣跡に隣接する造り酒屋「大和屋」【撮影は6月半ば】
山間の古い古い街

  古代の律令制は、大和王権の権威を各地方に伝達して各地方の農産物や特産物を税や賦課として貢納させる仕組みでした。そのため、東山道などの官道を建設し、官道沿いの拠点を騎馬で結ぶ駅逓制度を構築しました。8世紀はじめには、麻績は畿内から越後に向かう官道の宿駅となっていたようです。
  その後平安時代には、麻績には御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園とその統治のための官衙が置かれていました。
  麻績という地名は、まさに王権に直属する麻績部の民が暮らす集落があって、麻織物を生産して王権に納めていたことが起源となっています。


▲信濃札所三十三番霊場だった宗善寺の跡。その隣が本陣跡。


▲旧宿場の中心部を眺める

  麻績郷の由来となった麻績とは、麻や楮などの表皮を加工して糸を紡ぐ仕事またはそれを職掌とする人びとの集団を意味するそうです。
  律令制が成立する以前、大和王権に直属し麻績氏に服属する部の民と呼ばれる職掌集団がこの地に住み着いていました。その先祖は渡来人かもしれません。
  7世紀に律令制度が形成されると、畿内の王権と東日本や北越方面を連絡する官道・駅逓制度が建設されることになりました。善光寺街道の起源は、東山道から分岐して信濃の筑摩郡を抜けて越後国府に向かう支線官道だったと見れらます。それ以前から麻績部の民が暮らすこの郷村は、官道の宿駅となったのです。


▲脇本陣瀬戸屋脇からの善光寺街道麻績宿の眺め(東向き)

■険しい峠の南麓の集落■


▲麻績宿の石標

  ごく大雑把に善光寺街道の地理について言うと、善光寺街道は松本平から山間を抜けて千曲川沿いの善光寺平(更級さらしなまたは埴科はにしな「の里)にいたる道です。
  この街道の道筋には難所の峠が3つあります。松本から歩いて一つ目は刈谷原峠、二つ目は立峠、三つ目は猿ケ馬場峠です。麻績宿は猿ケ馬場峠の南麓に位置しています。そして、麻績宿から峠を越えて稲荷山宿までは標高差で300メートル登って600メートル下るという難路です。

  さて、9世紀ごろまでは中央の大和王権と地方とのあいだには文化や文明の圧倒的な格差があったのですが、各地方で農村や耕地の開発開拓が進み、地方ごとに豪族や有力者が富と権力を蓄えるようになると、王権の権威は衰退し律令制は解体していきました。官道制度は衰退し、宿駅だった集落(都邑)は各地方の統治の拠点となっていきます。
  大和王権が独占していた権力は貴族や有力寺社によって分割され、各地方(公地公民)は貴族や寺社の荘園に分解し、集落は荘園統治の拠点となっていきます。


▲家屋と道のあいだに前庭がある

▲前庭の植栽が美しい

  こうして平安時代の11世紀には麻績郷は、伊勢神宮内宮の荘園――御厨――となっていました。1038年には、集落の外れには伊勢神宮の祭神(天照皇大神)の分霊が勧請され、神明宮が建立されました。
  まもなく荘園の警護や管理を担っていた有力者=地頭層が富や武力を蓄えて、上皇や公家、寺社のあいだの勢力争いの先兵となり、やがて京洛畿内の権力から自立して領主となっていきます。地頭領主が分立割拠する時代になっても、伊勢神宮は強い権力を保有し荘園(御厨)は保持し続けました。
  鎌倉時代には、麻績郷は幕府御家人の伊賀氏の所領となり、かたや御厨には伊勢神宮の荘官として小笠原氏が赴任して、領地を管理しました。幕府の権威が衰退すると、伊賀氏は麻績を去り、小笠原氏が麻績姓を名乗って一帯の領主となったようです。
  麻績氏は、麻績集落の北側の尾根の峰に城砦を築いて、所領支配の拠点としました。麻績集落は中世風の城下町として整備されることになりました。しかし、やがて戦国時代には、村上氏の権力がこの地にも拡張し、服部氏が城主として派遣され、麻績姓を名乗ることにてきました。
  ところが、武田家の信濃侵攻によって服部氏は越後に追われ、武田麾下の青柳氏が麻績姓を名乗ることになります。武田家は猿ケ馬場峠を往来する道を開削整備したとか。
  その後、徳川家のもとで幕藩体制が確立され、麻績は松本藩の指揮下で善光寺街道の宿駅となりました。


▲麻績氏の城砦があった城山(画面中央)

  私が一見したところ、現在この集落にある和風の家屋は江戸時代のものではなく、昭和期に伝統的な造りを受け継ぎながら補修ないし改築されたもので、明治から昭和40年代まで盛んだった養蚕に適合した二階屋ではないかと思われます。


麻績宿の西端から街道の上方(南西)を眺める

街並みがここから始まる

街道沿いの街並み。大きな民家は養蚕に用いられたようだ。

広壮な古民家が並んでいる。総二階造りは養蚕に適したもので、大棟の上の小屋根は煙抜き。養蚕のために風通しを良くするためだが、茅葺造りの頃からの伝統を引き継いだと見られる。

この古民家も養蚕に利用されたか

広い二階屋は養蚕向きだ

麻績宿の脇本陣「瀬戸屋」の現在の姿

街道の先に姨捨山(冠着山)が見える

蔵造りの店舗だったと思しき建物

街道はこの家並みの先で左折する

この古民家は無住となっているようだ

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