▲仁王門を振り返る
▲護摩堂の棟側
開創の頃には、上井堀と呼ばれる現在地よりもさらに山奥の聖山の南斜面の断層崖を背にしたところ――標高1000メートルほどで池の近くか――だったと伝えられています。
今ではその地は「寺所」と呼ばれていますが、ほかにも寺の周囲には「薬師の蓮池」「鐘撞堂」「坊平」「東大門」「半在家」など、修験寺院と関連する地名が残っています。してみれば、この山奥には、修験霊場と七堂伽藍を備え、多くの院坊が並んだ寺町というか、高野山を小さくしたような大きな街集落があったのかもしれません。
そこには、中国留学を経た高僧や学僧、修験者たちが多数集住し、高度な知識技芸や奈良や京洛との密接な文化的交流を保つ拠点都邑があったのではないでしょうか。
今残っている堂宇などは、いにも神仏習合の修験場の印象を保っています。戸隠神社ともよく似た印象です。
修験霊場としての密教寺院は、本来は世俗世間とのつながりを断絶しますので、檀家をもたないそうです。古代には密教寺院はそれ自体、広大な寺領農地を保有した大きな事業体で経済的再生産を保っていたようです。しかし、中世以降、寺院の経営は相当に厳しくなったはずです。
聖山の標高の高い中腹にあった寺院が、現在地に移されたのは、山崩れによって堂宇が崩壊したのが理由だったという伝説もあります。
▲植栽の奥にある庫裏居住棟
▲小堂の棟側
境内参道の向きや配置からすると、やはり密教寺院の伝統を受け継いでいて、護摩堂が祈祷の中心にあるようです。この祈祷行を「護摩を焚く」と呼ぶのだとか。
密教修行の場としての護摩堂では、智慧の炎で薪となった煩悩を焚き、息災や現生利益、仏願成就などを祈願するするそうです。
福満寺では、本尊が薬師如来なので、この護摩堂は薬師堂とも呼ばれていたそうです。
もともとこのお堂に置かれていた薬師如来像は、今では隣に新築された瑠璃殿に保管されているそうです。護摩堂で火を使っても文化財が安全なようにするための配慮だとか。
▲近隣の風景:水田や果樹園が広がる
▲南方を展望:霧に覆われた四阿屋山
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