▲門前に並ぶ石仏群
▲本堂向拝破風に掲げられた寺紋は「四つ花菱」
本堂の向拝破風に飾られている寺紋は、武田家系の四つ花菱です。つまり、法善寺は武田家と深い関係にあったことを物語っています。
寺には武田信玄の高札や書状が残されているそうです。武田信玄の信濃攻略にさいして、この寺は大きな役割を果たしたようです。
1550年、武田家は深志城を攻略し、その後の3年後、筑北地方の攻撃にかかったのだとか。当時、麻績城主は服部清正で、村上義清の勢力下にあってその支援を受けていました。強敵が領する麻績郷の攻略を進めるための調略として、使者を派遣して法善寺に高札を掲げ集落住民の懐柔をはかったとみられます。
法善寺には四阿屋山権現または如意輪観音が寺宝として伝えられているそうです。そして、この寺は信濃三十三蕃観音の霊場のひとつで、その第一番札所となっています。しかも、第二番と第三番の札所も麻績郷に置かれています。それだけ、如意輪観音の威光が大きいということのようです。
ところで、四阿屋山は、麻績宿から5キロメートルほど南に位置する山(標高1,387メートル)で、その中腹に権現池があることから、往古、この山に如意輪観音を本尊とし権現堂をもつ霊場があったのかもしれません。
四阿屋山権現社は霊験あらたかなものとして周囲の村々から厚く崇敬され、法善寺がその別当寺だったのですが、北東山麓の安坂村と麻績郷が権現社の帰属をめぐって長年争い、江戸時代の天保期に山の帰属を安坂村とし、如意輪観音は法善寺境内に移すことで決着したそうです。。
寺宝として保存されてきた四阿屋山懸仏あるいは第一蕃観音像とは、これに由来するものではないでしょうか。そして、本堂西脇の禅堂の掲げられている扁額「四阿屋山」は本尊を守り伝えていることを語っているのかも。
▲本堂内部の須弥壇
▲みごとな造りの鐘楼
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麻績宿から境内に向かう道にある冠木門
杉並木に囲まれた石段参道と山門
石段の上には山門
山門から境内を眺める
重厚で大きな本堂
「 四阿屋山」の扁額が掲げられた禅堂 |