◆下町を歩く◆
「まるきや」のすぐ北側を、観音寺や五十鈴川河畔から来る道が横切ります。この道は、国道142号に合流します。
この四つ辻から先が下町で、松尾神社の手前まで家並みが続きます。
もう峠道は始まっているような急坂で、家並みは農村的な趣を強めていきます。
しかしそれは、江戸時代の街道宿駅の特質ではないでしょうか。
▲「吾一」の軒下に置かれた「竜吐水」。 これは江戸時代の消火装置
▲吾一の入り口
中仙道の開設とともに、近隣の村落から住民を集め、農民集落と同じような村役人を宿役人とする統治の仕組みをつくったため、中山道の宿場町は、その農村的な臍帯と結びついたままなのです。
商業や街道物流と結びついた宿駅の都市集落が、農民集落と質的な差がなく連続している――これが日本の特質なのです。
臨界点や特異点を経ることなく、社会構造として農村が都市に連続しているといえるのです。
和田宿も長窪宿も、そういう日本の街道宿場町の特質をよく表している街です。
それは、明治以降、日本の季題大都市が支配する物流システムから取り残されたために、宿場町が農村化したという言い方では正確にとらえることができない社会構造なのです。
中世に城壁によって外部の農村と物理的・軍事的に切り離す仕組みをつくることから始まったヨーロッパ都市の歴史・伝統とは、決定的に異なる特質です。
農村的な特徴を維持し続けた街並みは、植物(木材や竹、紙など)と土だけで建てられた家屋が集積した日本の都市の不思議な仕組みなのです。
その仕組みは、自然環境と人の集落を連続的にとらえる――あるいは街を自然に包摂されたものと考える――文化や精神構造に照応しているようです。
そんな風に日本の宿場町の歴史や伝統・文化を社会史的に見つめてみようと思ったのは、この冬、雪景色のなかでまるで水墨画のような下町の風景を目にしたからです。
そういう「和の美」というか、侘び寂びの景色に対して、私は切なる哀惜を感じるほど愛着を感じています。私のそういう心性が、このサイトづくりの駆動力となっているのでしょう。 |