◆出梁造りの町屋を探して◆
今回は横町通りのうち、旅籠「辰野屋」(竹重家)から北の様子を案内します。横町通りのうち辰野屋から北側をめぐる散策は、ほぼ「昭和レトロ」を探す街歩きになりそうです。
江戸期から明治期の建物はほとんど残されていないように見えます。出梁造りの町屋がいくつも残されていますが、だいたいは昭和期のものではないでしょうか。
それでも、昭和40年ごろまでに建てられた家屋は、中山道の伝統的な街道宿場町の建築様式を踏襲しているようです。
◆善光寺街道との連絡地◆
中山道の横町通りは「よねや」と「浜田屋」が向い合っている角町の辻まで続き、そこでほぼ直角に東に進路を転じます。このあと中山道は、笠取峠に向かってひたすら坂道を上る道筋となります。
他方で、角町から北上する道は、善光寺に向かう北国街道――善光寺街道とも呼ばれる――に連絡する往還です。この道は、このあと依田川沿いに丸子を経て、千曲川を渡って大屋という場所で北国街道に連結します。
北国街道を北西に4キロメートル足らず進むと信濃国分寺にいたり、さらに4キロメートルで上田城と上田宿まで到達します。
反対向きに大屋から南東に向かえば小諸、佐久にいたります。
してみれば、長久保宿は中仙道から北国街道に連絡する脇往還と結びついた交通と商業の要衝だったわけです。
▲通りに面して棟入りの配置で出梁造り
街道沿いには、おそらくかつては店舗であっただろうと思しき出梁造りの町屋はいくつも残されています。
昭和30年代(196年代半ば)頃まではたいそう栄えていた商店街だったのではないかと想像できます。この町に近隣の住民たちが買い物や商談ににやって来ていたのでしょう。
私たちの年代(60代)にとっては、通りを歩きながら、そんな「古き良き」昭和時代半ばを回想してみるのも、楽しく心安らぐひと時です。
さて、横町の終点であり、竪町との連結部である角町もまた、昭和期半ばには繁華な町だった面影が残されています。
というのも、角地には今でも旅館を営んでいる「濱田屋」があり、その向かいには「よねや」――旅館風の玄関の造りになっている――の家屋があって、いかにも往時は多くの旅人を迎え入れたものと思われるからです。
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