◆中町を歩く 2◆
竪町中町の東側で顕著なのは、やはり本陣石合家の広大な敷地です。街道からは敷地の境界はわかりませんが、おそらく30間(約50メートル)ほどはあったのではないでしょうか。
参覲道中の藩主たちを接待し宿泊させるわけですから、相当な構えの御殿(座敷棟)があったはずです。
▲冠木門と高札が並ぶ
▲庭園は座敷棟があった場所だろうか▼
本陣は、今でも石合家の人たちが住まっているので、門内に入って見ることができません。
外から見る限りでは、本陣陣屋と座敷棟は失われていて、一方、奥の方に日常の居住棟が現存しているようです。
本陣の斜向かいにあるのが、長窪宿歴史資料館「一福処濱屋」です。この館のもとになる町屋があったようですが、町への来訪者のための休憩処や案内資料の配布や展示を目的として、先頃改修されたそうです。
建物の東脇に無料の駐車スペースがあるので、街歩きのさいには利用できます。さらに館の裏側には、庭園と休憩用の四阿(あずまや)があります。
ひょっとすると、幕府(街道奉行)直轄の街道では街道宿駅の町屋の装飾について規制がかけられていたのかもしれません。
さて、一福処濱屋の斜向かいには、ごく最近に改修再建された「まるきや」があります。この町屋についての説明は、取材したときにはありませんでした。
この家屋は、完全に江戸時代の「街道宿駅の町屋造り」に修復されているようです。妻側の壁はすべて板張りで、街道に面したところだけが漆喰白壁になっています。さらに、屋根は杉皮葺きで大きな石を重しに乗せてあります。
ここも、春から秋までは無料で入場、見学ができます。
木曾路の街道町屋と比べると、肥沃な農業地帯に囲まれ、北国街道と連絡する要衝の宿場だけに、はるかに贅沢な造りになっています。やはり、商業の発達度合いと富の蓄積の規模が違うのでしょう。長久保宿は、信濃の中山道では塩尻に次ぐ宿屋数があった宿場だったのです。
|