◆中町を歩く◆
長久保宿は、火の見櫓の手前で右折して東に向きを転じます。ここからは山に向かう坂道になり、笠取峠までずっと上り坂が続きます。
ここは、依田川河岸の一番上の段丘に位置しますから、この坂道はもはや段丘を上る道ではなく、山の山麓から山腹にいたる斜面を上ることになります。⇒絵地図参照
この角地の内側には旅館「濱田屋」があります。この旅館は、建物が横町と竪町にまたがるカギ型に並び連結されています。おそらくこの宿場では一番恵まれた立地条件です。
ひとつ建物をおいた隣には、長久保宿の問屋を務めていた小林家の町屋家屋があります。
▲概ねづくりで出梁造りとなっている
この建物は「本棟造り」です。そして、これに中山道沿いの町屋に特有の出梁造りが組み込まれていて、二階の床桁が一階よりも外に出ている形です。
中山道町の商家の町屋では、本棟造りでも妻面の両側の屋根端に「雀踊り」または「雀脅し」を乗せていることはめったにないようです。長久保宿の問屋小林家でも、そういう装飾はありません。
ひょっとすると、幕府(街道奉行)直轄の街道では街道宿駅の町屋の装飾について規制がかけられていたのかもしれません。
◆伝統美を残す町屋◆
さて、中町には、旧中山道宿場に特徴的な造りの町屋が7~8軒現存しています。建築年代は様々です。江戸時代からのもの、明治から昭和中期のもの、近年に再建されたものなど。
通りの北側には、棟入り(平入り)の出梁造りの建物、そして坂上に向かって2軒おいて、入母屋妻入り出梁造りの建物があって目を引きます。
▲享保16年(1732年)よりも古い建築だという
▲間口9間半、奥行き10間半の広壮な建物
なかでも釜鳴屋(竹内家)の町屋は、享保年間以前の建築で、県内では最も古い現存建物だとか。間口は9間半、奥行きは10間半という大変に広壮な町屋です。
釜鳴屋は酒と醤油の醸造を営んでいて、宿場で最も富裕な商人だったようです。おそらく、年寄役として本陣石合家を補佐していたのでしょう。
醸造所となる土蔵があったはずですから、大きな敷地も保有していたのでしょう。
そのはす向かいにあるのが、古久屋(羽毛田家)の家屋で、往時は有力な旅籠を営んでいたそうです。現存の建物は、天保年間に建てられたもので、当時の標準的な規模だったようです。
|