本文へスキップ
長野県小県郡
長和町長久保
 
 
松尾山観音寺


▲山裾の五十鈴川河畔にたたずむ観音寺(盛夏7月)

  中久保宿の北側の山裾にある観音寺は、真言宗智山派の寺院で、京都の智積院の末寺だそうです。本尊は聖観音です。かつては、依田川の畔にあったのだとか。
  寺の開基は1449年で、覚信という高僧によるものだと伝えられています。場所は不明です。その後、戦国末期の1600年、領主の真田家に願い出て、依田川の畔にお堂を建てて、松尾山福応寺と称したのだそうです。

■河畔から山裾に移転■

◆宿場町と同じ歴史の軌跡◆

  観音寺の山号は「松尾山」ということは、松尾神社と何か関係があるのでしょうか。初期の松尾神社と結びついていたのでしょうか。しかし、私の知る限り、それに関して史料はないようで関係は不明です。
  寺が史料の登場するのは、1449年に覚信という僧都が開基したということだけで、場所がどこだったかはわかりません。
  そして、1600年、領主の真田家に請願して依田川の畔にお堂を建て、名称を松尾山福応寺としました。が、1629年の洪水で流されてしまい、3年後に現在地に移転し、観音寺と改称したそうです。


▲河畔から上る参道石段

▲山林に包まれたような本堂

  ということは、依田川による水害を逃れるために長久保宿が現在地に移転したのが1631年で、それにともなって観音寺も移設されたということになります。
  してみれば、この寺の前身、福応寺は古い長久保宿にあったと見るべきでしょう。

◆寺のエピソードと文物◆

  この寺の第7代住持の弘慧は、高徳の僧侶で大日堂や護摩堂などを建てましたが、1710年(宝永7年)に食を断って地中に石室にこもって入寂したのだ伝えられています。

  現在、境内には3つの小さなお堂がありますが、それらが弘慧が造営したお堂が起源なのでしょうか。
  境内の小堂の脇に宝篋印塔があって、そのなかに1710年(宝永7年)の銘を刻んだものがありますが、それは弘慧の遺徳を偲び菩提を弔うものなのでしょうか。

  また、本堂の須弥壇奥には木造の地蔵菩薩立像があって、それは本山の智績院から贈られたものだとか。地蔵菩薩像は、平安後期に真言宗中興の祖とされる興興大師の姿になぞらえた千体仏のひとつだとも言われています。


▲境内の様子


冬(12月)の観音寺

観音寺の前を流れる五十鈴川(上流側)

五十鈴川下流側の風景

門柱と石段。六地蔵と石塔が左右に並ぶ。

高麗門をくぐって振り返る
観音寺の本堂

宝篋印塔群と並ぶ小さなお堂

本堂脇の別の小堂

墓苑にあるお堂
 
中山道を学び体験しよう

長久保宿街歩き絵地図

  • 和田宿から長久保宿までの道筋を案内。
  • 下和田めぐりを案内する絵地図です。

旅籠「辰野屋」の家屋

  • 長久保宿辰野屋の町屋としての造りを探ります。
  • 町屋としてのつくり込みは中山道随一。

竪町の町屋資料館

  • 竪町で修復され資料館として公開されている町屋を探訪。
  • 内部の様子と展示資料を一瞥。

下和田めぐり絵地図

  • 和田宿から長久保宿までの道筋を案内。
  • 下和田めぐりを案内する絵地図です。

和田宿街歩き絵地図

  • 和田宿の中心部を詳しく案内。
  • 宿駅の前後の街歩きも案内。

和田宿の歴史絵地図

  • 中世城下町の時代からの変遷を説明。
  • 宿駅の発展の痕跡を訪ねる。

和田峠トレッキング案内絵地図

  • 和田峠めぐりするための絵地図。
  • 峠の史跡や名所をガイド。

和田宿近隣散策

  • 和田駅ステーションから
  • 和田宿温泉ふれあいの湯まで

中山道の歴史

  • 中山道に即して中山道の歴史を説明。
  • 幕藩体制と街道・宿駅との関係を考える。

中山道の町家造りの説明

  • 中山道宿場の町家造りの仕組みの解説です。
  • 街並み探索がもっと楽しくなります。

木曾路の絵地図

  • 木曾路のすべての宿駅を表示した絵地図です。
  • 木曾路一帯の名所や観光施設の案内に役立ちます。

中山道の絵地図

  • 京と江戸を結ぶ中山道(木曾街道)の絵地図です。
  • 東海道や日光街道、甲州街道、北国街道との連絡を図解。
のんびり写真館

街歩き写真館

木曾路・奈良井の心に残る風景写真を特集

  • 街並み景観、風物
          フォトギャラリー
  • 木曾路・奈良井散策

奈良井まちあるき

小布施まちあるき

別所温泉まちあるき

塩田平をめぐる旅

◆ブログ風の記事案内を見る

|  前の記事に戻る  |  次の記事に進む  |