室町晩期に滋野系芦田家が滅んで、それに依田系芦田家が取って代わって芦田城主となった経緯はすでに「芦田城跡と古町探訪」で見たところです。
光徳寺は、1470年に芦田城の二代城主の芦田右衛門太郎光玄が、父の芦田備前守光徳の菩提を弔うために建立したそうです。当初は現在より東側の居館の傍らにあったようです。その後幾多の変遷を経て、1716年(正徳年間)、現在の地に再建されたといわれています。
さて、芦田信蕃が戦死したさいに戦功を認められて息子、康国が松平姓をお与えられ小諸城主に任じられたのですが、まもなく松井田に転封後さらに藤岡の領主に移封されました。ところが、豊臣家の小田原攻めで戦死し、弟の康貞(康真)が藤枝領主となりましたが、わずか10年後に改易されてしまいました。
大坂の旅宿で囲碁をめぐる喧嘩口論の末に――ひどい侮辱を受けたため――相手を殺害したからだそうです。康貞は出奔して高野山で蟄居したそうですが、所領は没収されてしまいました。その後、しばらく浪人した後に結城秀康の家臣となり、越前に赴任し、秀康死後に子孫は越前福井藩の家臣――芦田姓を名乗ったらしい――となりました。
▲本堂入り口の扁額と扉
一方、徳川幕藩体制になってから芦田古町の光徳寺は、小諸藩主仙谷家によって寺領や堂宇を没収され、解体されてしまったようです。小諸城の改修やら藩庁の建設のために仙谷家は膨大な出費と資材の調達を強いられたのが直接の原因と見られます。解体された寺の建材は小諸城再構築や藩庁建設のために用いられたとみられます。
光徳寺が破却された背景には、芦田家(松平家)が信濃から上州に移ってしまい、しかも藤岡領主として康貞が改易処分を受けたため、寺院を保護する後ろ盾が失われたため荒廃していたという事情もありそうです。
1615年頃、康貞と越前に同行してた猶国和尚が暇を乞うて芦田の地に帰郷して芦田家先祖の菩提寺を再建したそうです。しかしその後、光徳寺は荒廃してしまい、1716年になって現在地で復興されたということです。
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芦田古町の光徳寺 石段参道を上に不開門
不開門(あかずのもん)の正面
諏訪の名工・立川流の意匠による山門「不開門」。江戸時代末期の作とされ、創建以来、新命住職の普山と皇室の御来山以外は開門しないこととされているとか。
不開門と禅堂
端正な本堂 |