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長野県大町市
 
 
謎ばかりの古刹

  大町市郊外の西側山麓にある不思議な寺院が曹洞宗の仏崎観音寺です。仁科三十三番霊場札所めぐりの順路では32番目のお寺です。巡礼ご詠歌のなかに「仏崎村の洞窟に仏像あり/ 身を捨てていらずば知らじ仏崎/のりいわやの深き心は」という和歌があります。


▲仏崎観音寺の境内と観音堂(本堂): 3月末、暖冬だったが雪が残っている


▲本堂の軒下にある泉小太郎と竜の像: 奥の石段の上の窟屋に隠棲したという

  仏像とは観音菩薩で、今では危険でのぼることができない石段上の洞窟の前に立つ小堂に安置されているそうです。
  その洞窟こそが、この寺院の起源となったと言われている伝説にある、竜とその子ども、泉小太郎の隠れ住処なのです。江戸時代には「仏崎の窟」と呼ばれて、人びとの畏敬と信仰を集めていたそうです。
  泉小太郎の伝説とは、犀竜小太郎の物語で、安曇野から善光寺平に流れ下る大河、犀川の起源に関する物語です。大昔、安曇野は広大な湖をなしていたのですが、竜と泉小太郎の親子が水を堰き止めていた尾根を切り崩し、さらにそこから長野盆地までの山並みを掘り崩して川の流れを生み出し、これが千曲川の支流である犀川だというのです。
  支流とはいっても、物理的には、流域の広がりと流水量においては千曲川の何倍も大きい主流なのですが。なにしろ、北アルプス、中央アルプスの降水を集めて流れるのですから。小太郎と竜の働きで、安曇野は肥沃な農耕地帯への道が開けたというわけです。

■現本堂建立は江戸末期■


▲曹洞宗仏崎観音寺の石柱門

▲参道入り口の冠木門は神仏習合時代の名残りか

  仏崎という独特な地名をもつ地区は、大町盆地の西の端の山裾に位置しています。餓鬼岳から大凪山、鍬ノ峰へと延びる大きな尾根の北東の端にあって、高瀬川に向かって東に張り出した山裾が仏崎です。
  大町市はじつにダイナミックな地形のなかにあります。市の北には、白馬村との境界をなす佐野坂峠と仁科三湖高原があって、そこから農具川が東山沿いに南流して高瀬川に合流します。市内を北西から南東に向かって流れる高瀬川は、市街に入る手前の山裾で鹿島川、篭川と合流しますが、これらはいずれも名うての暴れ川で、一帯の山岳を切り崩し浸食して堆積作用で広大な複合扇状地を形成しました。
  高瀬川はかつては頻繁に氾濫を繰り返し、ときにその川幅は西と東の山際まで広がったといいます。大町では盆地の北側の丘陵地では平安時代から集落があったようですが、本格的な集落建設と水田開拓は室町時代以降からが徐々に進んできたのだとか。高瀬川に近い平坦地に街並みが形成されたのは主に昭和期になってからのようです。


▲境内の常夜石塔群(崩れる危険あるらしい)


▲奉納されている馬たち(馬頭観音か?)

  高瀬川の谷間を挟んで上原から仏崎に続く丘陵は北アルプスの東山麓にあって、高瀬川が形成したなだらかな段丘の上にあるので、古代から人びとが集落を形成していたものと見られます。上原の丘陵にはおよそ5000年前の縄文時代の集落遺跡があって、そこから借馬という地籍にかけては平安時代の遺構もいくつか発見されています。
  仏崎は、そういう古代から集落がある丘陵地の南の端にあたります。仏崎から南では、高瀬川が餓鬼岳山塊の東端を侵食してできた谷間は平坦ですがより低くなっていて、明治よりも前は氾濫時には水没しただろうと見られます。


▲観音堂の正面


▲泉小太郎と竜の親子像

  仏崎観音寺の起源や歴史については、大半が謎です。わずかに幕末近く、1848年(嘉永元年)秋に「岩屋観世音御堂再建勧化帳」という記録がつくられて、寺のお堂の再建立が企図されたことが判明しています。郷土史家は、その前年に弘化4年の善光寺大地震があって、北安曇から善光寺平にかけて多くの建物が倒壊したので、そのとき倒壊したお堂の再建をめぐるものではなかったかと見ているようです。
  しかし、それ以前のことはまったく不明です。そこで私の勝手な想像ですが、仏崎は山麓から鍬ノ峰を経て餓鬼岳に登る稜線の入り口なので、平安時代には真言または天台の密教山岳修験の拠点寺院があったのではないでしょうか。ここから借馬、さらに大町市街にかけていくつもの寺院――江戸時代には大沢寺末寺――があったのですが、明治維新ですべて破却されてしまいました。
  それらは古い起源の寺院で荒廃していたものを鎌倉から室町時代にかけて曹洞宗の僧たちが禅寺として復興したものではないかと思われます。
  さて、観音寺には観音菩薩の化身または使徒として馬が手厚く祀られています。室町以降には、北安曇から鬼無里村、戸隠村、善光寺辺りまで、山間の村々を結ぶ交通路で借馬または馬方による輸送が盛んだったので、人びとは馬を大事にし、馬の息災を守る観音様を厚く信仰しました。この寺の4月28日縁日の草競馬には安曇野と水内一帯から馬と人が数多く集ったそうです。


大町ダムや上原地区から南下する農道: 残雪の山は爺ケ岳

農道の右手の鬱蒼たる針葉樹の森のなかに観音寺がある

東側からの参道入り口: 農業用水を渡る

星ら綱水を運ぶ農業用水

底まで見える澄んだ水が広大な田畑を潤す

横から見た山門と土蔵

杉やサワラの樹林の隙間から傾いた陽がお堂の屋根に射し込む

1848~50年頃建立と見られる観音堂

観音堂を取り囲む建物

木製の馬が奉納されている観音菩薩小堂

観音堂裏山にのぼる石段: 上に洞窟と小堂がある

今、石段の入り口は柵と金網で進入を禁じられている。
伝説の窟や小堂が見られなかったのはじつに残念だ。

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