▲曹洞宗仏崎観音寺の石柱門
▲参道入り口の冠木門は神仏習合時代の名残りか
仏崎という独特な地名をもつ地区は、大町盆地の西の端の山裾に位置しています。餓鬼岳から大凪山、鍬ノ峰へと延びる大きな尾根の北東の端にあって、高瀬川に向かって東に張り出した山裾が仏崎です。
大町市はじつにダイナミックな地形のなかにあります。市の北には、白馬村との境界をなす佐野坂峠と仁科三湖高原があって、そこから農具川が東山沿いに南流して高瀬川に合流します。市内を北西から南東に向かって流れる高瀬川は、市街に入る手前の山裾で鹿島川、篭川と合流しますが、これらはいずれも名うての暴れ川で、一帯の山岳を切り崩し浸食して堆積作用で広大な複合扇状地を形成しました。
高瀬川はかつては頻繁に氾濫を繰り返し、ときにその川幅は西と東の山際まで広がったといいます。大町では盆地の北側の丘陵地では平安時代から集落があったようですが、本格的な集落建設と水田開拓は室町時代以降からが徐々に進んできたのだとか。高瀬川に近い平坦地に街並みが形成されたのは主に昭和期になってからのようです。
▲境内の常夜石塔群(崩れる危険あるらしい)
▲奉納されている馬たち(馬頭観音か?)
高瀬川の谷間を挟んで上原から仏崎に続く丘陵は北アルプスの東山麓にあって、高瀬川が形成したなだらかな段丘の上にあるので、古代から人びとが集落を形成していたものと見られます。上原の丘陵にはおよそ5000年前の縄文時代の集落遺跡があって、そこから借馬という地籍にかけては平安時代の遺構もいくつか発見されています。
仏崎は、そういう古代から集落がある丘陵地の南の端にあたります。仏崎から南では、高瀬川が餓鬼岳山塊の東端を侵食してできた谷間は平坦ですがより低くなっていて、明治よりも前は氾濫時には水没しただろうと見られます。
▲観音堂の正面
▲泉小太郎と竜の親子像
仏崎観音寺の起源や歴史については、大半が謎です。わずかに幕末近く、1848年(嘉永元年)秋に「岩屋観世音御堂再建勧化帳」という記録がつくられて、寺のお堂の再建立が企図されたことが判明しています。郷土史家は、その前年に弘化4年の善光寺大地震があって、北安曇から善光寺平にかけて多くの建物が倒壊したので、そのとき倒壊したお堂の再建をめぐるものではなかったかと見ているようです。
しかし、それ以前のことはまったく不明です。そこで私の勝手な想像ですが、仏崎は山麓から鍬ノ峰を経て餓鬼岳に登る稜線の入り口なので、平安時代には真言または天台の密教山岳修験の拠点寺院があったのではないでしょうか。ここから借馬、さらに大町市街にかけていくつもの寺院――江戸時代には大沢寺末寺――があったのですが、明治維新ですべて破却されてしまいました。
それらは古い起源の寺院で荒廃していたものを鎌倉から室町時代にかけて曹洞宗の僧たちが禅寺として復興したものではないかと思われます。
さて、観音寺には観音菩薩の化身または使徒として馬が手厚く祀られています。室町以降には、北安曇から鬼無里村、戸隠村、善光寺辺りまで、山間の村々を結ぶ交通路で借馬または馬方による輸送が盛んだったので、人びとは馬を大事にし、馬の息災を守る観音様を厚く信仰しました。この寺の4月28日縁日の草競馬には安曇野と水内一帯から馬と人が数多く集ったそうです。
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