◆街道地形の歴史的変化◆
▲歴史の道資料館の入り口
▲土間には江戸時代の旅行支度・携行品を展示
明治期から昭和期まで、和田宿下町の街道地形は大きく変化しました。
追川の谷を埋め、街道を10センチメートルから1.5メートルくらいまで掘り下げて路面の高低差を小さくしたのです。☞参考記事
明治から現代まで、日本の道路土木は車両の交通をより効率的にするために道路地形を改造してきました。
◆追川橋から下町を歩く◆
ここまでは中山道を南から北に進んできましたが、下町は追川橋から歩いてみることにしましょう。
追川間近にある河内屋の地盤は山木屋よりも0.8メートルほど低いようです。川の谷間の傾斜に合わせてあるのでしょう。この河内屋は今では「歴史の道資料館」となっています。
街道を挟んで河内屋の斜向かいは、木問屋を営んでいた山木屋。木問屋とは、幕府の統制を受けながら、主に江戸に建築用の木材を供給する業務を請け負った有力商人です。
▲黒木屋の中庭
▲黒木屋の庭か眺めたら穀屋の土蔵
山木屋の隣は、旅籠を営んでいた黒木屋。昭和期まであった遺構を修築しました。町屋の造りには品格があって、庭園も――今は少し荒れていますが――美しいものです。
この庭から穀屋の土蔵や向かいの町屋(高木や下の穀屋)を眺めてみてはいかがでしょうか。
さて、ふたたび街道の向かい側に戻ると、河内屋の隣は「下の穀屋」。この町屋も出桁・出格子の造りが残されています。
そこから端正な庭園を置いた町屋が、その昔、旅籠だった高木です。
▲黒木屋の庭園から向かいを眺める
▲同じく高木の眺め
高木の町屋の造りも、やはり旅籠を営んでいただけあって、じつに上品で重厚です。
この辺りになると、街道の掘り下げの深さは30~50センチメートルほどで、石垣の高さも低くなっています。
高木の南脇には小路があって、それは信定寺の山門に向かう小径となっています。狭い小路の先の寺院とその裏手に城山を控える眺めもまた、和田宿ならではの風景です。
さて、そこから少し間をおいて県道178号脇に重厚な町屋があります。本陣の正面向かいにあります。
建物の位置から見てこの宿駅でも最上級の家門のももであることがわかります。明和期から幕末・明治初期まで名主肝煎りを務めた脇本陣羽田家の家屋で、現在は「蕎麦や徳田」となっています。
上小地方の名門、羽田氏は、遠く古代に戦乱や迫害を逃れて中国や朝鮮半島から渡来した秦族の末裔だともいわれています。秦は「はた」とも呼ぶので、信州の羽田族の先祖は秦族と見て間違いなかろうと思います。
この地方に古代から高い文化の集落が築かれ、東山道の要衝となり、稲作や機織りなどが栄えたのは、千数百年前に大陸の高い農耕・農業土木、手工業の知識や技術を持ち込んだ渡来人たちが住み着いたからではないでしょうか。
下町で一番の町屋といえば、近年復元された和田宿本陣の主屋だといえます。往時の造りを忠実に再現したそうです。
本陣については、別項ページを設けて探訪することにします。再現されたものとはいえ、中山道の本陣主屋がこれほどの規模で完全に存在するのはきわめて珍しく貴重なことです。
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