木曾路も含めて、信州の中山道では通常、京に近い方が「上」で、遠い方が「下」とされ、上町と呼ばれる街区は上方に近い側となっていました。
ところが塩尻では、理由はわかりませんが、逆になっていました。京から遠く、江戸に近い側が上町となっていました。塩尻宿は塩尻峠に向かう坂道に位置していたので、標高の高低で「上」「下」を区分したのかもしれません。
そして、和田宿では街区の名称は通常に戻り、京に近い方の街区が上町となっています。ただし読みは、撥音便がはたらいて「かんまち」です。
▲上町の中ほどからの中町方面の眺め
和田峠を背後に控えた和田宿に停留する旅人と貨物は急速に増えたために、17世紀半ばには宿場を従来の下町・中町に加えて上町に拡大しました。ところが、それでも貨客の増大に追いつかず、18世紀前葉にはさらに追川の北側に橋場と新田を加え、街並みは八幡神社辺りまで拡大しました。
こうして宿場町の長さは900メートル近くに伸び、街区の戸数は110軒を超えました。この宿駅のなかに本陣は1軒、脇本陣は2軒、貨客輸送の継立てを担う問屋が2軒ありました。
▲上町の田園地帯から遠く浅間山(谷間の右端の峰)を望む
とはいえ、町屋は中山道の両側に沿ってそれぞれほぼ1列に並ぶだけで、これらの家並の背後には田畑が広がっていました。奈良井宿のような大規模な街にはならず、農村に囲まれた宿場町でした。それだけ、この一帯が肥沃な農耕地に恵まれていたということです。
今でも街道に面した家並みの背後には農村情緒たっぷりの田園が広がっています。それは信州の中山道に共通の特徴かもしれませんが。