▲新田の中山道の曲がり角脇にある八幡社。現在の屋根は金属板で葺かれている。
八幡神社の創建に関しては、和田大井氏の城砦ないし居館の鬼門除けとして建立されたという伝承があります。鬼門とは北東の方角ですから、今の八幡神社の位置では信定寺の近くにあったとされる居館の鬼門とはなりません。伝承はきわめて不正確というほかありません。
▲茅葺の頃の姿。金属板葺きは元の屋根の姿を保つようにしてあることがわかる。
もし城砦の鬼門だったとすると、その城砦は、新海神社よりも500メートルほど南に位置する場所にあったはずです。古峰山の稜線上には多数の城砦遺構が並んでいますから、そういう砦(領主の本城)もあったのでしょう。
ところが、大井氏の居館――またはその真上の砦――の鬼門となる位置(方角)にあるのは、菩薩寺と和田大宮神社です。ともに境内から信定寺辺りがよく見わたせるので、居館の鬼門除けに関してはこの2つが相当すると私は見ています。
和田宿では幕末1861年に大火があって、本陣など和田宿の歴史を記録した文物が焼失してしまったために、街や寺社の来歴について不明の点が多いのです。