室町時代の終わりごろには、中沢川と松井川に挟まれた尾根台地――今日の本町辺り――には東西に道が伸び、交通の要衝として近隣住民による市場が立ち商品交換がおこなわれる拠点になっていたそうです。
浅間山から高峰高原、さらには湯の丸高原を北に仰ぎ、西には遠く北アルプスを望むことができるこの尾根台地は風景が美しく、人びとが集まりやすかったのでしょうか。
◆大井氏の築城と集落建設◆
戦国期のはじめの1487年、大井光忠はここに鍋蓋城(居館)を築いて、周囲の村々から住民移住を促して集落を建設しました。
京洛から東国に向かう東山道と浅間山麓で連結し、千曲川沿いに北陸方面に向かう道と千曲川の水運、そして周囲の豊かな農業地帯は、領国をつくろうとする武将にとって魅力的な場所だったのでしょう。
1554年には武田信玄が小諸を含む北佐久郡の9つの城を制圧。武田家は、北信、東信、上州方面への侵攻拠点として小諸城を拡大強化しました。
◆小諸藩時代には城代家老の屋敷◆
江戸期小諸藩の時代になると、藩庁としての城は城下町よりも下の千曲川寄りに建設されました。低地に浮かぶ島のような段丘崖台地に本丸などの曲輪が構築され、小諸城は城下町を下から見上げる「穴城」となりました。
そのさい鍋蓋城の遺構の高台は石垣で補強され、城代家老の屋敷となり、東に向けて城を防護する要害として機能するように改造されました。
◆奇妙な防御構造◆
鍋蓋城跡地の南にある大手門(四之門)から三之門にいたる区域の地形は、じつに奇妙な構造になっています。地面を人手で掘り下げてあるのです。その結果、登城の道が低地となり、二の丸から天主のある本丸までの曲輪が崖の上に位置することになるのです。
たぶんそれは、小諸城に攻め入ろうとする敵側が、周囲の高台曲輪からの攻囲を恐れて低地の進入路に入ることができないような穴城特有の構造になっているのでしょう。
◆市町から中町への街筋◆
▲本陣問屋場から脇本陣の裏手の小路
本陣問屋場から山謙酒造、脇本陣までの家並みの裏側(北側)には裏街小路があります。街歩きにはおススメのコースで、宿場街の雰囲気を味わえる場所です。
この小路の東の端には養蓮寺があります。戦国初期の1493年に開山された浄土真宗の名刹です。江戸時代の無双の相撲力士、雷電為衛門の菩提寺で、この寺には雷電が江戸から袂に入れて持ち帰ったと伝えられる鐘が保存されているとか。
▲中町通りに面した町屋風家屋
鍋蓋城跡を回り込む中町通りは、養蓮寺の手前で南に折れて市町通りに出ます。これが本来の北国街道の道筋です。
城跡の北側の小路に面して、町屋風家屋が建てられています。間口が狭く、奥行きが深い町屋独特の構造です。
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