◆寺町あるき◆
小諸で里山や田園と近接する「懐かしい風情」の街並みを楽しむためには、荒町の寺めぐりが一番です。
江戸時代には、光岳寺から海応院まで寺院の境内がひとまとまりになっていて、広大な聖域に数多くの堂宇が建ち並んでいたはずです。
宗心寺の裏手の霊園から木陰伝いに海応院まで歩いてみましょう。光岳寺の高麗門から荒町通り脇の門柱(山門)まで、およそ1200メートルほど続く広さです。
▲駐車場からの境内庭園の眺め
◆寺の由緒◆
旧街道沿いにある門柱の前に寺の由緒について解説版が掲げられています。それによると、開創は徳翁芳隆により1536年とか。史料によると1644年開基ということなので、禅庵の建立まで8年ほど要したのでしょうか。
当時の所在地は小諸城郭内の五軒町で「海翁庵」と呼ばれたそうです。小諸城の縄張り図がないので正確ではありませんが、現在の大塚酒造資料館から市役所の辺りではないでしょうか。
1649年には、藩主青山家の菩提寺として現在地、華林院跡地を拝領して移転しました。
当時は光岳寺も華林院も他所へ遷移したあとなので、海応院がこれらを管理下に置いたかもしれません。
◆境内の堂宇と庭園◆
▲本堂への参道は渡廊下門をくぐる
さて、境内は全体として端正に手入れされた庭園となっています。。
海応院の正規の入口は、街道沿いの1対の石の門柱です。石門には山号が彫られているので、それが山門なのでしょうか。
山門内の石畳の参道突き当たりを北に曲がると、端麗な薬医門形式の中門があります。この門の冠木には山号の偏額が掲げられています。
参道は、さらに渡廊下門をくぐり本堂に続いています。本堂は広壮で、座禅修行の場ともなっているのかもしれません。
本堂前は芝庭園になっていて左手の僧坊前には、樹齢380年を超えるという潜竜の松。潜竜とは、いまだ湖水・河川あるいは低い雲のなかに潜んでいて、天高く昇らない竜です。
地面近くに低く身体をくねらせている松の形は、いかにも今は身を伏せてこれから天への飛翔を狙う竜の趣があります。
▲石畳の先は北国街道荒町通り
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