小諸城は、千曲川とその支流の浸食でできた田切地形を利用して構築されました。
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◆田切地形◆
小諸城は、街道沿いの城下町よりも低い場所に築かれました。それは、千曲川がつくり出した広大な渓谷の縁に位置しています。
浅間連峰山麓に広がる高原丘陵の斜面を流れ下る川は千曲川に流れ込みます。これらの河川は、火山灰の堆積でできた大地を侵食して田切地形をつくり出しました。
広大な渓谷には、周囲を崖で囲まれた島のような台地がいくつも形成されたのです。
小諸城は、この田切地形をそのまま利用して築城されました。
▲動物園から懐古園入口に通じる道路
◆歴史の荒波をかぶる◆
そのため、城郭の各曲輪は高低差の大きな崖に取り囲まれていて、まさに自然の要害によって防備された城となっています。
ところが、明治以降の小諸の道路整備や都市開発、鉄道建設によって、三の丸から大手門、旧鹿島神宮の辺りの石塁や石垣はすっかり解体され、高台は切り崩されてしまいました。取り出された石は、路盤や路肩の整備に使われたようです。
二の丸から番所、北の丸の石垣も解体されてしまいました。現存の二の丸の石垣は1984年に復元されたもので、江戸時代の石垣とはかなり違っているようです。北谷側の石垣・石塁は復元されていません。
▲二の丸下の蕎麦店近くの石垣
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古い絵地図を参考にして江戸期までの地形を想像してみましょう。
城の曲輪を構成する高台は、@鍋蓋城跡の城代家老屋敷、A三之丸、B昔の鹿島神社と侍屋敷がある曲輪、C二之丸と南丸・北丸の曲輪、D本丸、E米蔵などの蔵群の高台などですが、これらはすべて橋や坂によって結ばれていました。
坂で結ばれた通路には関門を設けて番兵を配して要害としていました。
二ノ丸や、南丸、本丸を囲繞する石垣・石塁の上には、矢狭間や鉄砲狭間が穿たれた分厚い土塀が設けられていて、外から内部の建物を遮蔽・防護していました。
▲二の丸の石垣は段丘崖を覆う
ごく大雑把に形容すると、小諸城は先の尖った二等辺三角形で、底辺側を千曲川が守り、両側面を切り立った細長い高台と崖が擁護する形状になっています。
そして、その北・東・南の三方の周囲を武家屋敷の街並みが取り巻いています。さらにその外側に、与良から荒町、本町、中町、市町、柳町までいたる北国街道沿いの町屋の家並みが取り囲んでいます。
▲城を取り巻く段丘の下を流れる千曲川
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