旧中山道の道筋は、塩尻峠頂部を過ぎると尾根の南側を――170メートルほどの道のりで――北東に斜めに下って、谷底に回り込みます。そこから先は、谷の底を沢筋に沿って往くことになります。
この谷を挟む両尾根を覆う樹林はだいたいが落葉広葉樹で、ところどころに杉などの針葉樹やアカマツの群落があります。落葉樹が中心なので、陽射しが葉を落とした樹々を通り抜けて山肌を照らしていて、初冬ですが明るく開放的な景観です。昭和中期からこの辺りでは、杉植林の波をかぶらなかったので自然林が残っています。しかし、道を下っていくにしたがって杉林の割合が増えていきます。
初冬の碑を浴びる谷間に杉が木陰をつくる
谷底を往く道が600メートルほど続いたところで谷底の横幅が広がります。街道は沢筋から少し離れて谷底の北端を往くようになります。街道と沢との間には、棚田の跡が残っています。棚田跡は幅10メートルほどの階段状の地形です。
今あるのは、耕作が放棄されてから20年以上経過したと見られる段々テラスの草地です。そんな草地の端を往く街道の右脇(南側)に大岩があります。大岩といっても高さが2メートルほどの大きな石です。
現在は、この大岩の周囲は耕作放棄地の桑地や荒蕪地なので、「大岩」と呼ばれるほどには目立ちません。しかし、棚田での稲作がおこなわれていた頃には、谷間の平坦で整備された地形のなかに立つ大きな石は相当な存在感があったのではないでしょうか。
棚田を開墾した時代にはこの大岩を動かすこともできなかったので、人びとは自然の驚異を感じて、自然信仰の対象になったのかもしれません。なにしろ普段はチョロチョロ流れている沢が、昔の土石流でこれだけの石を上流から転がしてきたのですから。
■渓谷から扇状地へ■
さて、この辺りで標高は850メートルくらいで、峠の頂部から標高にして100メートルほど下ってきたことになります。谷間の底に横たわる平坦地が広がってきたので、街道を外れて棚田の跡の草地に入ると、場所によっては谷間の彼方に諏訪湖が眺められるようになりました。昭和期に棚田を開墾・耕作した人びとは、農作業の合い間に谷間に見える諏訪湖や湖畔の風景を愛でていたのかもしれません。
谷間の針葉樹林越しに見える諏訪湖
栗畑の端に祀られた馬頭観音
谷間の彼方に見える諏訪湖は神々しく見えます。湖畔に諏訪大社を谷間の平坦斜面の幅が広がるということは、そこから扇状地形が広がる起点だということです。ここまで街道が寄り添ってきた沢は、諏訪湖に注ぐ塚間川の源流だったのです。諏訪湖の北西岸をなす岡谷は、この塚間川の扇状地と横河川の扇状地とが合わさった複合扇状地をなしています。
大岩から道を東に200メートルあまり進むと、道の左脇(北側)に尾根中腹の高台にのぼっていく階段道があります。これは石船観音の境内に向かう参道です。言い伝えでは、境内が整備されたのは明治時代のはじめの頃だとか。急斜面の境内(岩棚)には水神社、馬頭観音など多くの石祠・石仏群が祀られています。ここには別の機会にあらためて探訪することにします。
境内から道路脇の用水側溝に境内から小さな滝のように水が流れ落ちています。その水源が山腹斜面にあって鳴沢の清水と呼ばれているようです。
■道路建設で改造された地形■
ここから先の一帯は昭和後期から、国道20号とバイパスや高速道路とインターチェンジなど道路網の建設で、道筋や地形がすっかり改造されてしまいました。旧中山道の遺構も失われてしまったようです。
ここは本来は、尾根裾の窪地で低湿地だったようです。昭和中期までは、低湿地地形を利用してこの窪地に溜め池がいくつかあったものと見られます。窪地の東側には尾根から張り出した丘があって、国道バイパスは丘をトンネルでくぐって東に向かいます。往時、中山道はこの尾根丘の西斜面を逆S字形に蛇行して今井集落に降りていったのかもしれません。今は国道とインターチェンジの上に架した狭い横断道橋を南に渡って窪地を越え、今井集落に入っていきます。
今は、窪地の北側の段丘上に高尾神社祠と石塔群が祀られています。石塔や祠が古びていますが、石製の鳥居や神社の台座が新しいので、この一帯の道路建設で元あった場所から移されて、ここに集められて合祀されたのではないでしょうか。
不動尊碑の上の段に並ぶ馬頭観音2体
現在の中山道遺構をもとにした遊歩道は岡谷市道265号となっていて、扇状地斜面を降り切ってから今井の茶屋本陣の前にいたります。
張り出した尾根丘からこの市道に下ってくる畦道のような細道の脇に石仏2体が並んでいます。その坂の下に不動尊碑が立っています。細道は旧中山道の脇道で、村人が塩尻峠に行き来したり農作業のために頻繁に通った道だったようです。
扇状地の丘陵を下りきった旧街道を振り返る
杉並木は今井家茶屋本陣の西端を画す防風林
|