街道から南の風景。丘陵に続く畑と樹林。
東明神社の背後の針葉樹林の辺りで標高はおよそ960メートルです。樹林の北側を往く旧中山道の周りには家並みはめったに見えなくなりました。もう集落の外れです。昭和期に開墾が進んだ丘陵には今、過疎や高齢化で耕作放棄地が目立っています。ここでは紅葉の時季はすでに過ぎて、樹々の枝には紅葉というよりも、散り残った枯れ色の葉が落葉を待っているという感じです。
■東山一里塚跡を訪ねる■
旧街道を東に歩くと、高ボッチ山に向かう道との分岐点から50メートル足らずで、旧街道の右脇(南脇)に東山一里塚跡に出会います。
一里塚とは、江戸時代の街道における里程標で、一般には、一里(3750メートル)ごとに街道の傍らに直径9メートル、高さ4~5メートルの盛り土をして塚をつくり、塚の上に榎や松などを植えて、目印としました。場合によっては、街道の両側に設けられることがありました。
一里塚の建設は、江戸時代初期に街道づくりを指揮した大久保長安と幕府道中奉行の指示命令のもとで1604年から10年間ほどでおこなわれたようです。
ところが、長安は死後に佐渡金山支配などをめぐる権力濫用や幕府財政の私物化などの罪科で断罪され、家門は断絶してしまい、街道建設における彼の功績は反古になってしまいました。そういうこともあってか、一里塚制度も段々すたれていったようです。一里塚はその後、改修や補修を施されることなく、荒廃していったものが多かったそうです。
しかしながら、中山道では、ことに山間を往く信濃では江戸後期まで一里塚は比較的に良好に保たれていたようです。
東山一里塚についての説明板。背後が塚跡。
盛り土の上から旧中山道を見おろす
塩尻峠の東山一里塚は、いく分かは風化して塚の高さが削られたようですが、山林のなかということもあって保存状態がよく往時の姿が保たれています。山中の雑木林――コナラやクヌギなど――に囲まれていますが、今でも近隣の人びとによって塚の上の草木は刈り払われ、丁寧に整備保存されています。
小高い塚の頂部には松の幼木が植樹されています。
旧街道の反対側(北側)には水源地が設けられています。そのため、池への進入を防ぐために道の北脇には東西100メートルにわたって鉄条網を施した金網フェンスが張られています。せっかく一里塚の遺構が保存されているのに、厳重な警戒と立ち入り禁止は残念ですが、水源を守るためには仕方がありません。
ところで、ここは南に張り出した尾根の突端で、旧中山道は尾根先端の窪地を通っているのです。窪地(一里塚跡)の北にある稜線の峰に、かつて東祖神社があったそうです。東山丘陵の開拓が始められた頃には、岡谷側からの開拓民の氏神だったようです。
■親子地蔵と馬頭観音■
大小2体の地蔵は「親子地蔵」と呼ばれる
沢の流路に大きな岩石が転がっている
一里塚跡を後にして120メートルほど東に進んだ辺りで、標高1000メートルを越えます。少しのぼり勾配がきつくなって、山林もずっと深くなります。傾斜がきつくなったのは、突出した支脈尾根の小さな峰を東峠に向けてのぼりながら回り込むからです。
ここで街道は南向きに大きく曲がります。この曲りの北側に迫る斜面に3体の石仏が並んでいます。そのうちの2つは大小一組の地蔵で、親子地蔵と呼ばれています。地元の伝説では、天保年間に飢饉が発生したため、旅の親子がこの辺りで餓死し、村人が大小2体の地蔵を建てて親子を弔ったのだそうです。親子地蔵の脇には馬頭観世音が置かれています。
これらの石仏の背後に急勾配の沢がありますが、今は渇水季で流路に水はありません。しかし、流路には大きな岩石転がっているので、ときおり急流が発生するのではないでしょうか。
庭園のなかの釣べ井戸の跡
親子地蔵からおよそ200メートル進むと、塩尻(柿沢)側の茶屋本陣跡にいたります。本陣というからには、休泊サーヴィスの相手は大名や公家、あるいは幕府公用の高位の役人だということになります。今でも本棟造りの古民家の主屋が保存されています。
広壮な造りの主屋は昭和期に丁寧に修築されたように見えますが、周囲の建物はすっかり老朽化・荒廃して廃屋になっています。主屋と街道を挟んだ向かいの斜面には昭和期までは、端正に整備された和風庭園があったらしく、庭石が並びモミジ・カエデやツツジの植栽が施されています。
■峠の塩嶺御野立公園■
茶屋本陣跡からさらにのぼって200メートルほど歩くと、塩尻峠の最高地点になります。ここで標高は1050メートル。中山道歩きとしては、ここからは岡谷に向かって下っていくことになります。
峠の地形を説明すると、東山の東側の尾根は入り組んだ独自の山嶺をなしています。岡谷側からはひとまとめに横川山と呼ばれているようです。山塊の西端から諏訪湖の西岸に細い尾根が南に向かって延びていて、小野の勝弦峠・小野峠にまで続いています。その付け根が塩尻峠の頂部で、峠道に挟まれた尾根峰が明治天皇の巡幸――その旅程で休憩地となった――を記念して塩嶺御野立公園北となっています。
公園の一隅に富士浅間神社の石祠が祀られています。言い伝えでは、浅間社は1614年(慶長年間)、松本藩主、小笠原秀政が再建したもので、塩尻西峠(東山)にあった浅間社を東峠頂上に移したものだとか。それまで松本領と諏訪領との境界は東山集落にあって、境界線を画す目印が浅間社でしたが、移設によって松本藩領を東に拡大するためだったようです。現存の石祠になったのは1668年(寛文年間)だと伝えられています。
尾根の進んだところに展望台がある
中山道塩尻峠の松本藩側は、幕府の直轄地を松本藩が預かり統治する形になり、勘定奉行、石谷備後守清昌の命で街道沿いに1200本のアカマツを植えて維持管理してきた。
しかし、明治20年の新道建設と11年後の尋常小学校建設にともなって、伐採されてしまった。
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