▲補修して数十年が経過しているか
▲段丘高台の南側に不動尊堂がある
木崎湖を含む仁科三湖の西側には仁科山地の険しい稜線――標高1300m前後――が南北にはしっています。白馬村南部から大町市北部にいたるこの稜線山並みは南北10キロメートルを超える大きな山塊をなしています【このペイジ下のグーグルマップ参照】。
この尾根筋の西には鹿島川が刻んだ深い峡谷がこれまた南北に伸びていて、谷の西側には、鹿島槍ケ岳から爺ケ岳まで北アルプス後立山連峰のひときわ高い山脈が南北に連なっています。
この山脈の西には立山や剣岳が連なっていて、古代から山岳信仰、山岳修験の長い歴史が刻印されています。
してみれば、仁科山地と三湖の周域にも古くから山岳修験と結びついた寺院群があったものと見られます。残念ながら、明治維新での寺院破壊によって、そういう伝統の痕跡は失われているのですが。
この地の不動尊は金山不動尊というようですが、金山とはこの一帯に張り出した尾根をいうのでしょうか。この山腹の西にある稜線の山頂は小熊山(標高1302m)と呼ばれています。木崎の南に借馬という集落があって、その鎮守が金山神社という古い神社なのですが、この神社と関連があるのでしょうか。
それとも、木崎湖の西に連なる山並みの峰のどれかが金山と呼ばれているのでしょうか。
▲お堂の南側kら見た側面
▲お堂の内部: 竜吐水という消防機具が保存されている
さて、街道傍らの案内板によると、金山不動尊堂には大小さまざま含めて400本ほどの鍛造剣が保存されてきたそうです。さらに、狩野派による不動尊像の画軸が残されているそうです――ただし火災で一部焼けてしまっているのだとか。
お堂は昭和30~40年頃に修復したようですが、もう40年間も人が集まることもなく、荒廃が進んでいるようです。屋根は傷んで雨漏りがするらしく、応急手当でブルーシートが被せられています。市の文化財として保存してほしいものです。
お堂は東向きで、集落全体を見おろす位置に立っています。そのなかには、江戸末期から明治時代に使われたと思しき、竜吐水――荷車のような車輪を付けて運搬できるようにしてある――という消防機具が保管されています。
不動堂の境内の南端の斜面には崩れた石垣の跡に慰霊塔や庚申塔、石仏が並んでいます。ここにはその昔、集落の人びとが庚申講や祭礼に参集したのでしょう。
不動尊の境内の南側に山腹にのぼっていく林道があって、これが古くは千国街道だったのではないかと思われます。この小径に入るとすぐに伊勢社への石段参道があって、石段をのぼった壇上に拝殿を兼ねた薬医門と蓋舎に覆われた本殿があります。
▲簡素だがしっかりした神明社風造りの薬医門拝殿
▲蓋舎のなかの本殿
薬医門だけの簡素な拝殿ですが、全体の形は神明風(南向き)の造りになっています。門の奥には、これまた簡略な造りの蓋舎に覆われた本殿が置かれています。古い時代には神明造りで拝殿と本殿が連結した社殿があったのでしょうが、過疎化が進んだため、昭和期末から平成期はじめ頃に簡易な拝殿と本殿蓋舎を今の形に改築したのではないでしょうか。
伊勢社がある段丘下の東側には、石垣の土台の上に小さな祠が置かれています。古びて傾きかけています。何の説明や標札もないのですが、火伏の神、熊野権現社ではないかと思いました。
これらの社殿群の南側、街道近くの斜面にも小さな祠があります。こちらは近年、補修されたようです。しかし、これまた標札はありません。祠の脇には小さな沢が流れ下っています。木崎湖畔にあって、水の流れの近くということで、これは水神社ではなかろうかと推測しました。
▲細い林道は墓地の脇を抜けて山林ににぼってくる
▲左の杉木立の下には、かつて小径の痕跡か
伊勢社への石段参道がある林道は、サイン林の奥にのぼっていく小径です。これが往時の千国街道跡ではないかと見られます。しばらく進むと、杉樹林の草地に分け入っていくような狭い道の跡と思しい地形があります。
さて、伊勢社下から現在の千国街道に引き返してさらに南に歩くと、小径は下り坂となり、先ほど分岐で別れた湖畔の道に合流します。そのまま50メートルほど歩くと上諏訪神社の鳥居前に出ます。
この神社の名前は「諏訪神社の上社」という意味らしいです。というのも、対岸の稲尾集落に下諏訪神社があるからです。
▲伊勢社に向かう分岐: 右奥に石段がある
▲段丘上から街道小径を見おろす
|