▲街道沿いに残る茅葺造りの古民家
▲民宿だったと思しき古民家
農具川沿いに南進してきた千国街道は、海ノ口北西端の集落に下る手前で曲り、西の尾根山腹の麓に寄ります。そこから、木崎湖面を見おろしながら湖畔に降りていきます。
往時の街道は、坂道を下りきらずに山腹を南進する小径を往くものだったようです。屈曲や起伏が激しいので、明治以降に、水田開発や観光業の振興のために湖畔に下る道を建設し、道沿いに集落の家並みを移したのかもしれません。あるいは、跡取り息子は山腹の古くからの家屋を相続し、次男三男たちが湖畔の道沿いに新たな所帯と住居を構えたのかもしれません。
そうやって、世代や時代を下るごとに山腹の高いところから低い湖畔に集落が降りてきたのでしょう。それとともに街道も低いところに降りてきたようです。
▲道脇に立つ「千国街道」の標柱
▲端正に補修されている茅葺古民家
木崎湖は、仁科三湖のなかで最も観光開発が進んだところで、湖岸やボートでのブラックバスやマス釣り、カヌーやセイル、湖畔樹林でのキャンプ、北岸でのハンググライダーなど、きわめて多様です。やはり、大町市街地に一番近いロケイションだからでしょうか。
湖の南岸の集落は、仁科氏の森城の城下町として鎌倉時代から栄えていたのですが、昭和期には仁科盆地・仁科三湖で最も有力な民宿街でした。そういう観光客宿泊の拠点があったため、木崎湖は高原の湖として都市部の多くの人びとを引き寄せてきたようです。
それに比べて、北西岸の集落は昔からの農村の伝統的な暮らしや営みを守ってきた場所だと言えます。
さて、湖畔とあまり変わらない高さまで下ってきた道路は三叉路分岐点に出会います。そこには、この集落でたった1軒の茅葺屋根のままの古民家があります。その古民家の東側の道は、そのまま湖畔に向かって低い位置を往きます。もうひとつの山腹に向かってのぼっていく道が千国街道だということです。
▲路傍の道祖神と道案内標識
▲伊勢社にのぼる石段参道
幕末までの古い千国街道は、湖畔の高さまで降りないで、10~20メートル以上高いところを起伏し長りくねりながら、南進していたようです。しかし、今はその道の痕跡はありません。民家の敷地になったり、草原に埋もれたり、開墾されて畑になったりしてしまったようです。
私は山裾をのぼっていく小径を選びました。小径の西側は急傾斜の山腹斜面で、深い山林となっています。分岐から170メートルほど進むと、小径の西傍らに茅葺の小さなお堂があります。屋根が朽ちかけた古いお堂です。
そこで運よく、近くの段々畑で草取りをしていたお婆さんにお話をうかがうことができました。老婆によると、そのお堂は不動尊なのだそうです。40年ほど前までは村の集会場となっていて、お堂の行事でにぎわったそうです。しかし、過疎化と高齢化のなかで、お堂は使われなくなり、近くの集落にいた茅葺屋根職人が30年ほど前に亡くなってからは、茅葺屋根の修繕や補修はしていないのだそうです。
お堂の南西側、森のなかには伊勢社があります。伊勢社は、山腹の丘陵斜面に位置する小さな台地(壇)の上にあって、台地の道路側の法面は石垣で支えられています。
現在の千国街道から分かれて、その石垣の脇を山腹に沿って行く林道がおそらく往時の街道の跡だと思われます。林道の谷側に分岐して、等高線と平行に樹林のなかを往ったであろう獣道のような痕跡がありますが、これが往時の塩の道だったのではないかと推測されます。
▲伊勢社前で街道は下り坂となる
▲段丘上から街道小径を見おろす
伊勢社下から現在の千国街道に戻ってさらに南に歩くと、小径は下り坂となり、先ほど分岐で別れた湖畔の道に合流します。そのまま50メートルほど歩くと上諏訪神社の鳥居前に出ます。
この神社の名前は「諏訪神社の上社」という意味らしいです。というのも、湖対岸の稲尾集落に下諏訪神社があるからです。 |