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長野県上伊那郡辰野町〜塩尻市
 
 
勝弦の山腹にある神社


▲勝弦山裾野の高台に位置する東照宮の拝殿

  小野神社から県道254号沿い北東に5キロメートルほどのところに勝弦という集落があります。その西側にそびえる標高1000メートルほどの山は勝弦山と呼ばれているようです。集落から標高にして30メートルほど西に上った勝弦山の裾野の高台にあるのが、東照宮です。山麓から長い石段参道をのぼりながら振り返ると、樹間に勝弦集落のほぼ全体を見渡すことができます。


三つ葉葵の紋が光る東照宮の標柱▲

  東照宮といえば、日光にある徳川家康を東照権現として祀る日光東照宮が有名ですが、その権現様を勧請した神社なのです。勝弦では東照宮が集落を鎮守する氏神様なのです。
  村の記録によれば、江戸時代安永年間(1780年頃)に勝弦新田村として集落が自立したのを機に、村の自立存続を祈願して日光の東照宮を勧請して創設されたのだそうです。
  19世紀のはじめ頃に、上の宮という場所に社殿を造営したと伝えられているとか。そこは、おそらく現在地から1キロメートルほど北東にある沢の上流部で、御座石の近くだそうです。今ではゴルフ場内のコース脇ですが。

■グーグルマップ■

■古い歴史を誇る勝弦の里■


▲集落は勝弦平と呼ばれた里にある

  古代の東山道のうち小野から諏訪湖畔の岡谷にいたる道筋には、勝弦の谷間を往く経路と少し南の小野峠越えの経路の2つがあったようです。
  勝弦の広い谷間は勝弦平と呼ばれていて、縄文早期(7000〜8000年前)から人びとの集落があったそうです。現在ゴルフ場になっている場所では、石器類が見つかっていて、太古に狩猟場だったと言われています。
  諏訪大社の創建をめぐる神話伝承では、建御名方命はしばらく勝弦に滞在し、そののちに諏訪湖畔に多くの勝弦住民を引き連れて進入したのだとか。この伝承は、かなりの規模の移住開拓や植民活動が古代におこなわれたことを物語っているのではないでしょうか。
  今から1000年以上前には、勝弦一帯には馬を育てる牧場(官牧)があったようで、信濃十六牧の岡屋牧はこの地にあったとも言われています。


▲石段脇にある金毘羅権現の碑

▲拝殿奥にある本殿

▲背後の山道から見た拝殿と本殿

▲社務所脇からの拝殿を見る

  さて東照宮に話題を戻しましょう。
  東照宮は明治初期(1872年)に勝弦新田の村社となり、その20年後、勝弦集落の中央部の西側の現在地に移設されたそうです。
  その後、1911年には拝殿が創建され、1961年には社務所が造られたのだとか。

  社殿裏からは、山林のなかを山頂にのぼる細い登山道が続いています。登山道の周囲はおおむね落葉広葉樹で、道脇のところどころに御岳権現や不動明王などの石仏や石碑が並んでいます。修験の場所でもあったのでしょうか。


▲社殿の裏山(勝弦山)山頂への登山道


石段前の鳥居

鳥居前の草地は植樹され庭園風になっている

長い石段参道。まばらな松並木がある。

石段御先の高台の上には社殿や社務所

石段から振り返り勝弦集落を展望
境内中央奥に拝殿

拝殿右側に社務所がある

社殿群の配置状況
境内の様子。右手に石段がある。

拝殿の奥には本殿がある

裏山に並ぶ修験や山岳信仰に関わる石仏と碑
 
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