現在、高台にある高瀬家資料館の北側を通る遊歩道は崖縁の狭い道ですが、このような地形になったのは明治以降、ことに昭和期の道路建設にともなって高台段丘斜面が切り通されて崖になったからだと見られます。
江戸時代には関所の前後の中山道は、少なくとも1間(1.8メートル)ほどの道幅だったと推定されます。参覲旅の大名の従者が軽武装の2列縦隊で通行できる道幅になっていたはずだからです。
ところが現在では、幅1メートルもない狭い道が崖縁に設けられているだけで、最も狭いところでは約幅50センチメートルと窮屈です。そして道の外側・下側は断崖になっています。
ということは、段丘斜面の北側の縁は幅にして2メートルほども切り崩されて、崖になっているわけです。往時、関所跡がある高台の北側は、木曾川の縁まで何段かの河岸段丘が連なる斜面となっていたものと見られます。
高瀬家資料館入り口の長屋門から邸内を眺める
上町の駐車場から関所跡がある高台には、駐車場の南側の崖につくられているつづれ折れの道をのぼっていくことになります。
往時はこんな断崖ではなく、「菓子蔵喜しろう」の店舗の辺りから高瀬家資料館辺りまで幅1間ほどの坂道の街道が続いていたと推定されます。そういう坂道沿いに上町の家並みがあったはずです。
西に向けては、上の段の高台に沿って、そういう斜面が文化交流センターを経て横宿辺りまで続いていたのです。そして高台の北側には、河岸段丘が連なる斜面が木曾川の縁まで続いていたということです。
ところが、明治25年の国道建設にともなってこの斜面は切り通され、その後、道路と街並みを建設するために地形が昭和中後期にかけて大がかりに改造され、木曾川まで続いていた斜面はなくなってしまったようです。
関所跡の北脇は崖縁にこのように狭い道が通っている
この建物が資料館で中に展示仏がある
関所跡の資料館は、江戸時代の関所の建物の基本構造に倣う形で復元されたようです。しかし、建物の二階部分の高さはもっと低く、厨子二階造りに近い造りになっていたと見られます。
さて、建物内部の東側は現在板敷(フローリング)になっていてガラス張りの陳列ケースが並んでいます。そのなかには、関所に関連する写真屋や古文書などが並び、火縄銃やさすまたなどの武具が陳列されています。
江戸時代には、ここは土間になっていて、武具などとともに背負子や箕笠、草刈り鎌、鍬などが置かれていたのではないでしょうか。
土間の西側の間は畳敷きとなっています。ここは往時も同じでmそこに関所役人、吟味役、調べ役、記録係がいて、家屋の外に控えている旅人(通行人)を検問していたものと考えられます。
東側の門の外側は草地となている
草地と柵の東側(外側)に並ぶ観光施設は休業中
ところで、明治以降に関所跡の高台の地形がつくり変えられてしまったため、復元した関所の建物(史料館)などや通り道の位置関係は支離滅裂になっています。門を入ってから関所役人が検問・取り調べをおこなう場所に向かうことができません。
したがって、この関所跡は資料館ではあっても、往時の姿や歴史を展示し伝えるものになっていないのです。観光施設ではあっても、史跡としては形や配置が不適切です。
そのため、地形の改造もさることながら、関所跡資料館などが史跡としての指定を受けることができなくなっているようです。
そういう事情から、今、資料館の東側の草地など関所跡の埋蔵文化財の発掘調査と建物や策などの作り直しをおこなっているのだとか。江戸時代の関所の建物・施設が正確にはどこにどのように配置されていて、どのような造りだったのか調査して、昔あった姿に近い状態で再現する必要があるのだそうです。
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