戦国末期の商業と物流の飛躍的な発展にともなって、城郭の構築と防御の思想は根本的に転換してしまいました。
一言で言うと、険阻な山岳などに築城してたてこもる方式から、城下街全体をを兵站補給の要衝として囲い込むような軍事的防衛体制を敷き、その中心に城郭を位置づけ、一帯に堅城の支配を恒常的におよぼす方式に転換したのです。
▲長和町指定文化財長窪城跡の説明板
城跡遺構の入り口に立つ説明板によると、この城は別名を深山城または霞の尾城と呼んだそうです。室町中期(1400年頃)に大井氏または芦田氏(依田氏)によって築城されたのだとか。大井氏や芦田氏はその頃、佐久や小県に拠点を築いて割拠していた豪族領主たちです。
やがて佐久郡岩村田大井を領し城を構えてい大井家門の一族が長窪城を掌握して長窪を100年以上にわたって統治したそうです。長窪古町の集落建設や耕地の開拓を指導したようです。
ところが1543年、甲斐の武田家による信濃攻めで城を包囲されて投降し、城は武田勢が北信濃に侵攻するための拠点となったのだとか。武田勢のなかには、上田から沼田にかけて領地を要する真田家も含まれていました。
しかし、そのおよそ40年後、武田家は織田家の信濃・甲斐討伐で滅ぼされてしまいました。が、生き残りの策略に長けた真田昌幸は、巧みに立ち回って上田小県を支配する地位を獲得し、さらに徳川家を説き伏せて上田城を築かせました。
その頃には、城郭は難攻不落の山に築く時代が終わって、交通の要衝の都市集落と一体的に城郭防衛を構築する時代になっていました。昌幸は城下に家臣団を集めたことから、兵站補給線が組織しがたい長窪城は廃棄されることになりました。
▲二ノ郭から本廓を見上げる
▲本廓の石塁跡
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林道をのぼって長窪城跡に
林道から尾根伝いに南に向かう遊歩道
遊歩道の先に城跡の北の郭群遺構が見えてきた
北の郭群:土塁や空堀の跡 |