証誠山西蓮寺は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来、京都の知恩院の末寺だそうです。
この辺りでの阿弥陀如来の信仰は古代からありました。7世紀半ば善光寺の阿弥陀如来が伊那の座光寺から長野に遷座される旅の途中、旅の一行は依田川河畔で休息停泊したのだそうです。この辺りに阿弥陀如来が短時日、安置されたのでしょう。
▲参道脇に並ぶ六地蔵
▲鐘楼を見上げる
やがて阿弥陀様の安置場所を聖地としてお堂を建立し道場を開いたそうです。暴れ川、依田川がたびたび氾濫したので、その始原の地がどこだったかはわからないようです。
その後、鎌倉時代のはじめ(1204年)、遊蓮坊円照という僧が寺院を興し、それから30年後に西山派の祖、善恵坊が再興したのだそうです。やがて、鎮西派の崇誉上人が中興開山し、知恩院の末寺としたのだとか。
ところが1629年(寛永年間)、依田川の氾濫で寺はすっかり流失し、1645年に現在地に移して再建されたのだそうです。それ以前に寺がどこにあったかは不明です。
▲参道脇の池
▲背後の樹林からの眺め
やがて18世紀の後半(宝暦年間)に本堂が建立されたのですが、1835年に火災で焼失してしまったとか。
現在本堂として残っているのは、その当時の庫裏なのだそうです。また、大きな屋根の鐘楼は1742年(天保年間)の建築で、山門はそれよりも古いものだそうです。ともに元は茅葺だったのですが、現在は金属板の屋根を葺いてあります。
境内には天満宮がありますが、小ぶりですがじつに精妙な造りで、立川和四郎の手になるものと伝えられています。
この寺には、本尊寺宝として桃山様式の阿弥陀三尊像が伝えられているそうです。阿弥陀像の両脇に観音菩薩と勢至菩薩を脇侍としていて、金箔塗装が施してあるのだとか。本堂火災のさいには本尊だけは救い出されて無事だったのですが、脇侍は失われたようです。後に脇侍をつくり直したときに金箔を施したのだとか。
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