牛方宿は、千国の集落の一番奥から標高にして100メートル――道のりにして1.7キロメートル――ほどのぼった山腹高台(およそ標高780メートル)にあります。
その坂道は親沢に沿っているので、親坂と呼ばれているようです。千国の南に立ちはだかる山を回り込んで栂池高原の麓に出る道です。
江戸時代の街道――とくに峻険な難路が多い信州――では、馬で貨客を運ぶ馬方と並んで、牛で物資を運ぶ牛方と呼ばれる業種の人びとがいました。彼らは街道を旅するときに牛方宿という宿泊施設に牛とともに寝泊まりしました。
親坂の上に牛方宿が設けられたのは、険路の輸送活動での安全と休憩のためです。北に向かうときには、栂池高原をやって来た牛方が急坂険路に備えて千国の庄の手前で休息を取るため、南に向かうときには急坂を登り切った疲労を取るためだったでしょう。
塩は、人びとの生存に不可欠のもので、古代から昭和期まで中央王権や地方政権が流通に課税し販路を管理する専売物資でした。流通と販売の実務は、藩が高額の納税と引き換えに問屋商人に専売特許を与えていました。信州では千国街道の塩の運搬・流通について松本藩が厳格に管理していました。
▲塩を貯蔵した塩倉(復元建築)
▲牛方宿と塩倉
▲谷間に街道が通り家屋がある
▲棚田と段々畑
千国街道(糸魚川街道)では塩の運搬は主に牛方が担っていたようです。牛方宿の近くには、塩を貯蔵した塩倉があります。千国口留番所が近いということで、塩の重量に応じて課税徴税したのでしょう。往時の塩倉は、今の建物の倍以上の容積だったとか。
塩の流通輸送という点では、千国が松本と糸魚川の中間に位置する中継拠点だったのかもしれません。千国集落は番所を中心にした都邑で、盆と暮には大きな市――半年市――が立ち多くの人びとが参集したそうです。
街道では、越後からは塩や魚介海藻など海産物が運び込まれていたので、半年市は殷賑をきわめたことでしょう。
▲谷間に開かれた田畑
▲街道から古民家を眺める
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