千国街道は、参覲交代の大名が通行することがなく、また幕府の公用旅行者がめったに通らなかったので、大名や幕府役人を宿泊させるための本陣や貨客継立てのための問屋などは置かれませんでした。
ということは、本陣や問屋などを核とする宿駅制度のない街道だったということになりそうです。
そうなったのは、大地溝帯の地割れに集まった水流としての姫川が穿った峡谷に沿った街道は難所続きで、しかも北国街道よりも冬場の積雪が多かったため、旅行に日数がかかったからです。
それでも日本海沿岸から松本などの内陸部に特産物を運ぶ経路として利用されました。とはいえ、この街道は一年のうち約半年は雪におおわれました。冬場には物資の運搬を担ったのは、歩荷と呼ばれる人びとで、自ら荷物を背負って街道を歩いて運びました。
ことに塩の運搬では、彼らはひとり一俵ずつ背負い、数人の仲間を組んで厳しい山越えに挑みました。
雪が消えると、牛方たちが牛一頭の背に塩2俵ずつ積んで、山や谷を越えて運搬しました。熟練した牛方たちは、一人で5、6頭の牛を引き連れて峠越えをしたといわれています。
▲番所の屋内の様子▼
往時、一般民衆は居住区を越えての移動(旅)には、特別の許可証である通行手形が必要でした。武家諸法度に抵触しない程度の簡易な関所ともいえる口留番所では、人びとはその通行手形を役人に提示し、人改めの検査を受けることになっていました。
番所はまた、商品としての物資を運搬する職業に携わる人びとの動きも監督・監視し、荷物を改めて物品の量目を検査し、しかるべき税を課していました。つまり税関でもあったわけです。
▲屋内に飼われていた馬(史料館)
▲天井の造り
▲往時の有力者の主屋内の様子
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