野平の谷間を集落に向かってのぼる道は3本あります。私は一番南側の道をのぼることにしました。3本の道は村の中央部で縦(南北に)結びついて1本になって、家並みの東端まで急坂が続いていきます。まずこの坂を村落の端まで歩いてみることにしました。
南から集落に入る場所には小さお堂があります。
散策の途次、92歳になるという老婆に出会って、いろいろ村のことについてうかがうことがでましきた。その方は、この村で生まれ育ち、結婚して今にいたったといいます。
老婆によるとこの村は、今から四百数十年ないし五百年前頃にできたのだそうです。その前は、ここよりも奥の山々の尾根や谷あいに集落がいくつもあって、戦国時代の終わりごろに、この地が開拓され、村落となったのだとか。お堂には名前がなく、物心ついたときからただ「お堂」と呼ばれていたようです。
この谷を降りた姫川の対岸にある塩島新田は、この村よりも100年ほど後になって形成されたそうです。塩島集落は、それよりも古く、塩の道の中継地だったようです。そういう村がつくられたのは、暴れ川の姫川や松川による水の脅威が、気候変動あるいは治水技術の進歩である程度抑えられるようになったからでしょう。
▲集落の端から深い山林が広がる
▲上ってきた坂道を振り返る
▲村で一番高いところにある古民家
集落東端の坂道をのぼって山林のなかに入ると、鬼無里村日影や戸隠へと通じる道があるということです。若い頃には、その道を通って鬼無里方面と行き来があったようです。ただし、この山道は現在、通行止めとなっています。
そのおばあさんは、この朝、坂の上の家に暮らす姉(94歳)に合いにいって茶飲み話をしての帰り道だといいます。お姉さんは跡取り娘で婿を迎えたのだそうですが、なにしろ年上なので体調が心配で毎日会いに行くのだそうです。これから自宅に帰り、支度をしてから畑仕事をするつもりだとか。快活で矍鑠たる物腰です。そして、谷の彼方に見えるのが岩岳スキー場で、その下が塩島と新田だと説明してくれました。
▲東側からの古民家(家の裏手)の眺め
▲こちらが家の正面
▲屋根は東から南にかけて切り上げた造り
▲この道は、村はずれからさらに山奥に続いている
この集落の奥の尾根づたいの平坦地や谷あいには、1000年以上も前からいくつも集落がありました。村から続く小径は、そういう村々を結んで、鬼無里や小川、戸隠などの方面に連絡していたのです。
だいたい室町時代頃から山間地から現在の白馬村の尾根の中腹や裾に出てきて、農耕地の開拓を進め、村落を建設したという歴史の流れが見えてきました。
一方、平安時代から鎌倉時代にかけてすでに荘園が形成されていた小谷方面からもしだいに南下して白馬村に農耕地や村落の開拓が進んできました。してみると、この谷の下にある塩島は、北から進んできた開発と東から進んできた開発とが出会う場所だったということになるかもしれません。さらに古くは、安曇族の往来と移住があったようです。
この野平や青鬼、蕨平の集落は460~500年ほど前に東側の山岳部から来た人びとによって開かれ、その後、塩島村が形成され、戦国後期までには地頭領主の塩島氏が山城を築いていた・・・だから村々は戦国武将の争いに巻き込まれたようです。しかし、野平など山里までは戦火はおよばなかった、と考えられます。
◆野平の茅葺造りの特徴◆
野平集落に現在残されている茅葺古民家(主屋)の特徴を見てみましょう。茅葺屋根の東側から南側にかけて――南と西を切り上げたものもある――切り上げて陽の光や風を通しやすくした造りと、屋根の深さが四方一様のものとがあります。
2つのうち前の方の様式は、大正から昭和にかけて養蚕を営むために屋根を改修したのだろうと考えられます。もう一つの様式は、そのような改修をしないで、古くからの様式を保っているものです。少なくとも主屋では養蚕をしなかった(別棟に蚕室を設けた)ということでしょう。
▲一番北の道路で村の中心部に向かうと・・・
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