日本の古い街道はどれもそうですが、そのどれにも増して千国街道は「祈りの道」という印象を受けます。
とりわけ小谷村千国から白馬村にかけての地方(往時の千国庄)は、観音菩薩信仰に広く深く行きわたったところのようです。街道のいたるところに石仏群が並び、その多くは観音像です。
すでに小谷村での塩の道の旅で述べましたが、松沢荘の大女将によると、千国庄の人びとは功徳を求めて各戸ごとに石工に頼んで観音像をつくり、街道や村の要所に奉納安置してきたそうです。
江戸時代の晩期には、四国八十八ケ霊場遍路とか伊勢参りなど、信仰と観光を兼ねた旅の大ブームが起きましたが、各地の街道旅も霊場巡礼や寺社参詣の風習を織り込んだものとなったのだとか。
その風習というか伝統文化は昭和40年代頃まで続いていたようです。その後、一時廃れていましたが、「塩の道」の保存や復元の動きにともなって最近ふたたび徐々に復活しつつあるようです。
▲岩岳の湯から続く森のなかの遊歩道
▲観音原と呼ばれる長方形の草原
私は、県道433号に続く小径を南に折れて森に入り、千国街道塩島新田宿の集落に続く坂道の上にある「観音原石仏群入り口」の案内標柱から始まる遊歩道を往くことにしました。
この遊歩道は環境省の「中部北陸自然歩道」に属す小径で、塩の道に沿って整備されたもののようです。とはいえ、この遊歩道が塩の道と一致するかどうかは不明です。しかしながら、往時、塩の道がこのような鬱蒼たる森のなかを往く小径であったという趣は確実に復元されています。
◆観音原石仏群◆
さて、観音原は、南北約40メートル、東西約80メートルほどの長方形の草原です。この草原の西側の縁には弘法大師像を中心に33体、南の辺には34体、東側には馬頭観音など小石造が密に70体、北辺には33体、合計187体の石仏群が配置されています。
石仏は観音様だけでなく、如来や菩薩も含まれるようで、四辺形に並んだ曼陀羅世界を表現しているのかもしれません。やはり、千国庄の観音信仰が基礎にあって、住民各戸ごとに石仏をつくって奉納安置したのでしょう。
石仏の列にはそれぞれ、北側坂東三十三か所霊場、西側には西国三十三か所霊場、南側には秩父三十四か所霊場の本尊を配してあるのだそうです。東側の列は、地元の石仏を集めたものでしょうか。
ここに石仏群が置かれるようになったのは、いつごろからなのでしょうか? 寺社参詣や霊場巡礼の旅が風習となるのは早くとも19世紀前半で、江戸時代も晩期にさしかかる頃合いですから、その頃から明治期にかけてではないかと思われます。それにしても、この草原は何だったのでしょうか。古い寺院の跡か、茅場の一部だったのか。
大事な石仏を並べるのですから、神聖さを感じる場所であり、信仰の対象となる何かがあったものと推察できます。
◆塩島新田宿への道◆
▲岩岳の湯から続く森のなかの遊歩道
▲最上段の段丘崖を下る小径
▲下の段丘崖を往く坂道下の家並みが塩島新田集落
観音原は、松川の浸食で形成された河岸段丘の最上部の丘陵の森林のなかに位置しています。この丘陵の東端を楠川が流れていて、狭い谷間を形づくっています。2つの川は相互に衝突し合うように姫川に流れ落ちながら、複合扇状地を形成したようです。
松川と姫川の合流地の河岸段丘が塩島地籍で、その西側すなわち松川下流部の段丘に新田が開かれ、そこに千国街道の宿駅を兼ねてつくられた集落が塩島新田村ということになります。
したがって、観音原から塩島新田集落に向かって、塩の道は森に覆われた河岸段丘崖の斜面を下っていくことになります。現在復元されている塩の道は、もう一つ下の段丘崖を斜めに下る坂道だけで、そこにいたる道筋はわかりません。
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