上記のように、千国街道は地場と地場とをつなぐ経済道路・生活道路で制度的に完備されたものでもなく、必要に応じて松本藩が管理していたので、廃藩置県のあとは各郷村が場所ごとに別個ばらばらに管理することになってしまいました。ことに明治20年代(1890年頃から)には、旧街道を土台としながら新道建設が繰り広げらるようになると、新道から外れたところでは千国街道の大半は解体され私有化されたりして、新たな農村集落や農耕地あるいは山林の下に埋もれ、消え去っていくことになりました。
それでも昭和期半ばまでは、古くからの集落や寺社の近隣では塩の道の面影はかなり残されていたのではないでしょうか。しかし、1970年頃からは高度成長の結果として、観光リゾートの開発ブームが勃興して、歴史の遺構や伝統的な建築物の価値を顧みるゆとりもなく、森林や農村はつくり変えられていきました。
ことに白馬村は、戦後の農耕地開拓、高度成長期後半からの開発が飛躍的に進みました。この塩島新田集落は、古い街道の面影をまだ残した段階で、豊かな観光収入に恵まれたため、ある程度は古民家や旧街道の痕跡を文化財として保存ないし復元できたのかもしれません。
▲水車小屋の周囲は「憩いのロータリー」になっている
▲宿場用水の面影を残す水路
さて、「新民宿ばばうえ」の下の河岸段丘崖の坂道――塩の道として復元――を下り、村道を南に進むと、薬師堂と水車小屋がたっている辻に出ます。この辻から東向きに300メートル余りが、塩島新田集落の宿場の趣きを感じさせる小径です。
このサイトをご覧になる方々よ、水車小屋の実際の役割をご存じですか。私は自ら体験して知っています。信州(現長野市)鬼無里村の母の実家がある集落で、稼働している水車小屋に入りました。1962頃です。
水車小屋では、小麦粉や大豆を粉に挽いていました。水車の回転を軸として木製の機構で杵の上下動や石臼の回転に変えて穀物の脱穀精製や粉末化をおこなっていました。
そのため、水車には負荷がかかっているので、水流が速くてもゆっくり回転し、小屋のなかの杵や石臼の発する音が混じってゴットンゴットンと重々しい響きを出していました。
▲「ゆるり」の軒脇からの景観
▲「まるはち」の棟側の姿br>
▲「まるはち」の妻側からの様子<
◆塩島新田集落の家並み◆
塩島新田集落でそれなりに往時の姿をとどめているのは、通りの東側です。この村の庄屋で大地主豪農で、手広く日本全国を結んだ商業にも深く手を染めていた横澤家門の古民家群が残されています。
江戸時代中期以降、日本各地の農村の庄屋や名主たちは、単に大地主で豪農(さらに多くの場合、山林主)であるだけでなく、広く商業貿易を営んでいて、その資産は小藩の領主をはるかに凌いでいました。
現存の古民家「庄屋まるはち」の結構は素晴らしく広壮で、中山道の本陣でも、これだけの規模の建物はそうありません。田舎街道の宿場の庄屋といえども、日本全国の経済事情に通じ、幕末には海外事情にも詳しいくらいの知識や見識をもつ特権身分だったのです。
塩島新田宿の街並みで特筆すべきは、街道の中央南寄りに宿場用水がある遺構が保存されていることです。今では用水脇に桜並木があって、返還をつうじ、ことに春には大変に美しい景観を提供してくれます。
とりわけ松本藩は、藩が主導する街道建設ではみごとな都市計画を立てて宿駅集落を建設し、街道中ほどに宿場用水と並木植栽を奨励し、きわめて美しい街道風景をもたらしました。善光寺街道の郷原宿にその遺構があります。それがここにも残されています。
そういう街道を維持できるほどにこの集落は豊かだったということです。
▲郷愁を誘う茅葺古民家の姿
▲鬱蒼たる杉樹林に囲まれた古民家
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