本文へスキップ
長野県北安曇郡白馬村
塩島新田宿の家並み

  観音原からおよそ500メートル南東に歩くと、段丘崖の下に塩島新田集落が見えてきます。ここは、17世紀半ばに新田開拓と集落建設が始まった千国街道の宿駅ですが、今では白馬岩岳スキー場麓のリゾート地となっています。
  千国街道は幕府が統制する街道ではなく、また大名が参覲のために通行する街道でもありませんでした。たとえるなら、東海道、中山道などの幕府直轄の街道が一級国道で、北国街道などの幕府間接管理の北国街道が二級国道なら、千国街道は県境を超える県道のようなもの。信濃での千国街道は松本藩が管理していました。


▲千国街道塩島新田宿の東端の風景(伝行山から)。背景に見えるのは、松川河畔の森林帯と八方尾根スキー場。


▲塩島新田宿集落内の街道。宿場用水沿いに桜並木が街道に影を落とす。

  大名が通行しないので宿駅本陣、脇本陣、貨客継ぎ立ての問屋場もありません。日本海と信濃中央部を結ぶ経済道路・生活道路であってみれば、人が背負う荷駄としての歩荷のほかに馬や牛による荷駄輸送はありました。ただし維持費がかかる馬はめったになかったようです。
  というしだいで、宿場集落やそのほかの主要な村落には旅籠のほかに牛による荷駄輸送を継ぎ立てるための牛方宿と塩倉(塩蔵)が置かれていました。
  この辺りでは幕藩体制になってからもしばらく街道沿いの主要な集落は、ここから1キロメートルほど南東の塩島集落となっていました。が、「徳川の平和」のもとで経済や物流・商業が活発になるとともに―― 1650年以降、ことに18世紀から ――、松本藩主導で千国街道の宿駅の整備が企てられ、塩島集落が母村となって開拓が始まった新田(塩島新田)に街道の中継拠点の役割――宿または間の宿――が振り分けられることになりました。
  こうして塩島新田村は街道の宿場となったのですが、中山道と異なり、この集落は物流・商業の拠点となったものの、都市的な集落とはならず、より農村的な性格を強く保有するものとなったようです。


▲宿場を差配する豪農=豪商だった庄屋横澤家「まるはち」の古民家

■開拓農村から高原リゾート街へ■

  上記のように、千国街道は地場と地場とをつなぐ経済道路・生活道路で制度的に完備されたものでもなく、必要に応じて松本藩が管理していたので、廃藩置県のあとは各郷村が場所ごとに別個ばらばらに管理することになってしまいました。ことに明治20年代(1890年頃から)には、旧街道を土台としながら新道建設が繰り広げらるようになると、新道から外れたところでは千国街道の大半は解体され私有化されたりして、新たな農村集落や農耕地あるいは山林の下に埋もれ、消え去っていくことになりました。
  それでも昭和期半ばまでは、古くからの集落や寺社の近隣では塩の道の面影はかなり残されていたのではないでしょうか。しかし、1970年頃からは高度成長の結果として、観光リゾートの開発ブームが勃興して、歴史の遺構や伝統的な建築物の価値を顧みるゆとりもなく、森林や農村はつくり変えられていきました。
  ことに白馬村は、戦後の農耕地開拓、高度成長期後半からの開発が飛躍的に進みました。この塩島新田集落は、古い街道の面影をまだ残した段階で、豊かな観光収入に恵まれたため、ある程度は古民家や旧街道の痕跡を文化財として保存ないし復元できたのかもしれません。


▲水車小屋の周囲は「憩いのロータリー」になっている

▲宿場用水の面影を残す水路

  さて、「新民宿ばばうえ」の下の河岸段丘崖の坂道――塩の道として復元――を下り、村道を南に進むと、薬師堂と水車小屋がたっている辻に出ます。この辻から東向きに300メートル余りが、塩島新田集落の宿場の趣きを感じさせる小径です。
  このサイトをご覧になる方々よ、水車小屋の実際の役割をご存じですか。私は自ら体験して知っています。信州(現長野市)鬼無里村の母の実家がある集落で、稼働している水車小屋に入りました。1962頃です。
  水車小屋では、小麦粉や大豆を粉に挽いていました。水車の回転を軸として木製の機構で杵の上下動や石臼の回転に変えて穀物の脱穀精製や粉末化をおこなっていました。
  そのため、水車には負荷がかかっているので、水流が速くてもゆっくり回転し、小屋のなかの杵や石臼の発する音が混じってゴットンゴットンと重々しい響きを出していました。


▲「ゆるり」の軒脇からの景観

▲「まるはち」の棟側の姿br>
▲「まるはち」の妻側からの様子
<

◆塩島新田集落の家並み◆

  塩島新田集落でそれなりに往時の姿をとどめているのは、通りの東側です。この村の庄屋で大地主豪農で、手広く日本全国を結んだ商業にも深く手を染めていた横澤家門の古民家群が残されています。
  江戸時代中期以降、日本各地の農村の庄屋や名主たちは、単に大地主で豪農(さらに多くの場合、山林主)であるだけでなく、広く商業貿易を営んでいて、その資産は小藩の領主をはるかに凌いでいました。
  現存の古民家「庄屋まるはち」の結構は素晴らしく広壮で、中山道の本陣でも、これだけの規模の建物はそうありません。田舎街道の宿場の庄屋といえども、日本全国の経済事情に通じ、幕末には海外事情にも詳しいくらいの知識や見識をもつ特権身分だったのです。
  塩島新田宿の街並みで特筆すべきは、街道の中央南寄りに宿場用水がある遺構が保存されていることです。今では用水脇に桜並木があって、返還をつうじ、ことに春には大変に美しい景観を提供してくれます。
  とりわけ松本藩は、藩が主導する街道建設ではみごとな都市計画を立てて宿駅集落を建設し、街道中ほどに宿場用水と並木植栽を奨励し、きわめて美しい街道風景をもたらしました。善光寺街道の郷原宿にその遺構があります。それがここにも残されています。
  そういう街道を維持できるほどにこの集落は豊かだったということです。


▲郷愁を誘う茅葺古民家の姿

▲鬱蒼たる杉樹林に囲まれた古民家


薬師堂、左右に庚申塔などが並ぶ

この水路は農業用水も兼ねた宿場用水だったのか

外観だけイメージ的に復元した水車小屋

観音原脇の遊歩道:往時、山林のなかの塩の道はこんなだった

草原の南の縁で木漏れ日を浴びる石仏

街道から古民家「庄屋まるはち」を眺める

裏手草地からの「まるはち」の景観

古民家の宿「ゆるり」の外観:横手からの眺め

街道からの「ゆるり」の正面の姿

旅籠「丸八壱番館」の裏手の眺め

「丸八壱番館」の正面側の姿


「まるはち」の斜め裏手の古民家:みごとな結構だ。。

通りの南側、東端の家並み

木彫の木製常夜灯。この奥に木彫家の工房がある。


▲集落の東端からの景観。集落右手の彼方に見える山は白馬岩岳スキー場。

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |