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長野県北安曇郡白馬村
村を見おろす神明宮


▲神明宮の参道から集落を見おろす: 村落は尾根に守られるように挟まれている

  野平の谷間の北側を扼する尾根が東から延びています。この尾根の西端には盛り上がった2つの峰が並んでいます。そのうちの西から2番目、小さい方の尾根の背に神明宮があります。その尾根は峰から南西方向に延びています。
  急峻で狭い石段を跨ぐ鳥居は、神明様式ではなく、明神様式との折衷というべき形です。


▲崖ともいえる急斜面を登る参道: 鳥居は神明宮様式ではなく、明神様式との折衷風

  社殿はかなり丁寧に補修維持されているので、やはり住民の考えがあって、敢えて折衷方式にしてあるのだと思います。神明神社は、明治以降は国家神道イデオロギーとの絡みがあって、社殿や鳥居の形をめぐってさまざまな想いが交錯しているようです。
  ともあれ、この尾根の背に神社を設置してあるのは、集落を見守る守護神として尊崇し祈りを込めてきた村の歴史を物語っています。
  ところで、参道が尾根直登であるのは、尾根の北側から回り込む参道が、尾根の北東側の沢の土石流を防ぐために砂防堰堤を建設し、進入禁止となったたために、使えなくなったせいかもしれません。
  その結果、南から急斜面を直登する参道だけが残ったという事情かもしれません。険しい今の参道は、高齢者の参拝をきわめて困難にしています。それでも、社殿は大切に維持されてきたのです。


神明宮風――社殿正面には向拝が張り出す折衷方式――の直線的な屋根に木漏れ日が降り注ぐ

  野平神明宮は、集落東端の尾根の上に置かれています。この集落に見て神明宮を探したのですが、案内表示もなく、鬱蒼とした深い山林に覆われ た神社のありかは、なかなかわかりません。尾根の麓の村道沿いを探せば、参道が見つかるだろうと見当をつけて歩いていると、民家のあいだの狭い路地の奥に急勾配の石段を見つけました。
  尾根斜面の勾配は30°をゆうに超えていて、石段の最下檀上に鳥居が見えます。
  その鳥居は、明神方式と神明方式の折衷で、どちらかというと明神方式の度合いがまさっている形です。尾根上の境内には境内社をまとめて安置した社殿があって、4柱ほどが並んでいます。おそらく、明治以降、時勢の動きのなかで村の鎮守社は神明宮としてまとめ上げられたものの、小谷から白馬に多い諏訪社や熊野社などの明神社も合祀・並祀されているのでしょう。


▲この2棟のあいだの路地が参道入り口

▲急勾配の尾根斜面をのぼる石段

▲古民家を見おろしながらのぼる

▲鳥居を見おろす

  この集落とは北の尾根と青鬼沢を越えて隣に位置する青鬼集落には、もともとは密教修験由来の寺院――今は岩戸山中腹の奥の院が残るだけ――と結びついていたと見られる青鬼神社があるので、また戸隠方面との結びつきもあるので、野平の山奥にも密教修験由来の寺院があったかもしれません。
  戦後、ことに1960~70年代に政府の林業政策に促されて進められた杉苗の植林によって、この辺りの山林の植生はいわば力づくで組み換えられてしまい、その結果、落葉広葉樹が中心だった頃にあったであろう杣道が消滅してしまいました。したがって、山のなかで古い寺院などの信仰の歴史をたどる痕跡を探るのもはなはだだ困難になってしまいました。

  いったいに明治以降、この国の政府の政策はどうなっているのでしょう。民衆の信仰の伝統や歴史を強引に捻じ曲げたり、山林を杉森に組み換えさせたり・・・。その結果、民衆の信仰の歴史の痕跡は失われ、スギ花粉症の蔓延をもたらしてしまいました。


▲石段参道の中途の脇に広場がある

▲神楽の奉納などはここでおこなうのだろうか


▲境内社殿のなかに並ぶ神は4柱

  社殿を取り囲む杉の幹の太さからして、40~50年前に植林がおこなわれたように見えます。林はよく手入れがされているようですが、広葉樹中心の森だった頃の面影は見出せません。神社から峰に向かう小径があったのではないかと想像できますが、どこにあったかは特定できません。
  尾根山とその谷の形から推察するに、神社の南東側から谷(沢)伝いにのぼる杣道もこの神社に通じていて、さらに尾根の峰に向かう道があるのではないでしょうか。

◆神社の下の墓地と石仏群◆

  ところで、神社の北側の尾根裾には墓地があります。これも急斜面で墓参りも大変そうですが、丁寧に草刈りがしてあります。ここには、住民の家系ごとの墓と並んで、相当な数の石仏が集められています。北安曇では、往古は石仏と墓碑は同じで、しだいに分かれてきたそうです。
  わかる範囲で銘を読んでみると、普通の石に混じって、どうも修験や禅修行、古い寺院に関係するのではないかと思しき墓碑がいくつもあります。
  集落の西端にあるお堂の周りにではなく、ここに墓地と石仏が置かれているのには、どういう経緯があるのでしょうか。私は、この尾根の上に寺院があったのではないか、それとの関連で、ここに墓石と石仏群があつめられているのではないかと見ています。
  もうひとつの理由が考えられます。尾根の墓地の北東に大きな砂防堰堤があるのです。墓地から北の堰堤付近は危険地帯として立入禁止になっています。してみると、この奥の場所からここに墓地と石仏を移設したのかもしれません。


左端の家の裏の尾根の上に神明宮がある

古民家のあいだの狭い路地が参道石段に続く

斜度30°以上の石段は途中が見えないほど急峻だ

石段を百段以上ものぼらないと社殿前に行き着かない

小野の背の鬱蒼たる山林のなかに社殿が見える

拝殿の大棟両端には千木がある神明宮式だが向拝も出ている

境内社を集めた社殿

拝殿の奥にある室は本殿と思われる

神明宮式の千木が見える

社殿前の大杉は樹齢300年を超しているようだ


神社の下の尾根裾の墓地には多くの石仏も並ぶ

厚さ3メートル近い大きな砂防堰堤

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