白馬村塩島新田の近隣一帯は不思議なところで、これだけの村落でありながら、それに相当する規模とか歴史の寺院が見当たらないことです。たしかに石塔をともなう小さな薬師堂はあるのですが、何やら道路建設や区画整理にさいして集めて移設してきたような配置です。神社も、1.5キロメートル離れた切久保諏訪神社がありますが、例祭や年中行事をおこなうには遠すぎるような気がします。
近くに観音原石仏群があるのに、集落近くに寺院がないのは、いかにも不自然です。そう考えて周囲をめぐったところ、伝行山の頂と麓に社殿や石塔・石仏群が集まっていて、塩島新田の人びとが信仰と結びついた祭事をおこなってきた場所が見つかりました。「伝行山下堂」と呼ばれる、かなり有名な場所らしいです。
▲伝行山の麓、伝行山下堂の一角にたつ庚申殿と説明板
▲山麓、県道433号脇に遊歩道がある。これが岩岳山麓めぐりの「尾花道」だろうか。
そこに立つ説明板によると、この集落出身の横澤本衛という実業家で大資産家が、伝行山と呼ばれる丘の頂に稲荷社を造営し、麓から社までのぼる石段をつくったのだとか。また、境内に立つ徹然が植えた枝垂桜は、幹の太さから見て(樹齢120年前後か)、明治期に植樹されたものにょうです。徹然という名前から、僧侶なのでしょう。
ということは、山下堂が整備されたのは明治期で、幕末まではこの辺りの寺社、つまり信仰のよりどころはどうなっていたのでしょうか。やはり、謎だらけです。江戸幕府の統治手法から見て、切久保神社には別当寺があったことは確実ですが、その記録や痕跡も不明です。
江戸時代には地区ごとの住民台帳である戸籍を管理してたのは、寺院でした。寺院は、幕藩体制下での民衆支配の一環をなす装置ともなっていました。それだけに、版籍奉還などもあって、明治維新では新政府が古い権威を徹底的に破壊して自らの権威を高めるためにも、廃仏棄釈という過激な政策に打って出たのも――民衆が扇動に乗って廃仏運動に深く加担したのも――仕方のないことかもしれません。白馬村北条では、ことのほか廃仏運動が激しかったということでしょうか。
そういう歴史の曲折は仕方のないことですが、寺院をめぐって民衆の生活と信仰の歴史的な痕跡や史料がすっかり失われてしまったことについては、古いもの好きの私は憮然たるものを感じます。
鯉池と伝行山: 池と伝行山麓のあいだには、緩やかな斜面の野原がある▲
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