◆切久保の開拓の歴史を想像する◆
白馬村は昭和期に北城村と平川村の合併でできた自治体です。この地方は、古い時代(平安末期~江戸時代)には千国庄に属する新興開拓地で、広大な原生林や湿地帯が塩の道に沿って切り開かれ、村落や農耕地がつくられていったそうです。
▲塩の道脇の切久保諏訪神社
姫川に西側から楠川と松川が流れ込み、東から青鬼沢と菅沢が合流するこの地区は、古代には氾濫などで広い湿地や沼地となったと思われます。そんなとき塩島城跡がある山(城山)は水面に浮かぶ島のようになったでしょう。糸魚川からの塩を運ぶ経路上にあるその山は、塩を安全に保管する場所として、塩島と呼ばれたのではないでしょうか。
もちろん、これは私の勝手な想像にすぎませんが。
江戸時代には、この切久保をはじめ、その東方の立ノ間、青鬼や森上近辺の地区は全体として塩島村を形成していました。切久保は古くは霧窪と書かれていたのかもしれません。というのは、この辺りは霧降の里という呼び名もあるからです。
岩岳の東麓にある切久保は、南に松川、東に楠川が流れる複合扇状地の上の段丘にあって山間の広い窪地をなしていました。冬季や雨期にはこの窪地に深い霧がまいていたいたのではないでしょうか。
安曇族の信州内陸への進出ということを考えると、塩の道古道は平安時代前期には原型がつくられていたようです。とすれば、遅くともその頃には千国庄の開発・開拓が本格的に進んでいて、古道沿いに塩島郷にも開拓民がやって来て集落や農耕地を衝きり始めていたでしょう。
▲鳥居の先の境内の様子
▲境内の一隅に並ぶ小さな石祠
▲石垣壇上の様子
▲境内を流れる沢
▲拝殿を見あげると・・・
◆切久保諏訪神社◆
そうすると、平安時代の中頃までには霧窪に――安曇族とも関係の深い――諏訪神社が勧請創建され、開拓村の鎮守として開拓民たちの尊崇を集めていたのでしょう。
神社の境内を神水ともいうべき沢が南北に流れています。鳥居は南向きで、沢の畔に神楽殿があって、境内の北、山裾の石垣壇上に拝殿と本殿があります。拝殿の横には双子のような大杉が立ち、その脇に竃神社、さらに祖霊社が並んでいます。
さて、落倉から切久保までの塩の道の痕跡は見つかりませんが、県道433号(千国北城線)を南進すると、道の両側にグラウンドが見えてきたら、西に向かう分岐路に入ります。分岐から500メートルほど進むと、左手に神社が見えてきます。それが切久保諏訪神社です。
そこは白馬岩岳スキー場の東の麓で、旅館やホテル、民宿などが集まった小さな集落です。
▲集落の中ほどにある茅葺古民家
▲無住で荒れ始めている
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