◆古典的集落ができる条件◆
すでに述べましたが、白馬地方では室町ないし江戸初期まで多くの集落は山間部にありました。たとえば、尾根の中腹の勾配が緩いところとか斜度が緩やかな谷間などです。
そのような場所のなかでも、村落が形成されるための条件があります。棚田や畑を耕すための灌漑用水や飲み水が得られやすい水流、安定した水量だが流れが強くない谷川や沢――土石流の心配があまりないところ――の近くで、斜面が全体として南に向いて開けていて、陽光が得やすいところ、などです。
▲納屋の脇の庚申塔や石仏が並ぶ
▲石仏・石塔群からの集落の眺め。ノカンゾウの花が咲く。
青鬼集落に保存されている古民家群の大半は、明治版期から昭和初期にかかて建築されたか、改修されたものだと思われます。それは、茅葺屋根の南側(棟側)が、陽射しと風をより多く取り入れるために大きく切り開かれている造りから判断できます。
このような造りは、明治晩期から大正期、さらに昭和前期にかけて、信州で養蚕が盛んになった時期に開発された様式で、蚕室を設けた二階に陽光や風を取り入れて蚕の成育を促すためのものです。⇒金属板を被せていない茅葺のままの古民家の典型を見る。
▲集落最西端の古民家
▲茅葺屋根の南側が大きく切り上げられている造り
◆違った姿の山村風景があった◆
養蚕が盛んにおこなわれたのは、だいたい1960年代(昭和40年代前半頃)までではないかと思います。養蚕をおこなうためには、蚕の餌として大量の桑の葉が必要です。ということは、集落の周囲にはかなり広い面積の桑畑が広がっていたはずです。
桑は日照を必要とし、山腹や谷間の斜面でもしっかり根を張って成長することができます。してみれば、現在の棚田の周囲の山腹ないし谷の斜面に桑が栽培されていたことでしょう。
その頃、この村の風景は、今とはずいぶん違っていたはずです。
▲平屋造りの茅葺古民家
最も標高の高いところに位置する家屋
集落最東端にある家屋:南東向きの配置
取材中、そういう風景の変化も含めてこの集落の歴史を想像しているところに、現在でもこの集落に暮らす高齢者に出会って、お話を聞くことができました。以下、こんなあらましです。
この集落には今、十数棟の茅葺古民家が保存されているが、冬場も含めて常時居住しているのは4世帯だけになっているとのことです。それでも例年、夏場には、古民家の管理や水田・畑の管理のために10軒ほどの人は戻ってくるのだそうです。
風景の変化で著しいのは、村の背後の山林の姿だそうです。
集落の北側に迫っている尾根(裏山)は昭和30年頃までは、ほとんどが落葉広葉樹――クヌギやコナラ、松、ホオ、トチノキ、カエデなど――だったようです。その周囲というか尾根裾は桑畑が取り巻いていたようです。
ところが、その後の時期に山林には、目先の現金収入を求めて一斉に杉の木を植林して、山の植生はすっかり変わってしまったのだとか。高度成長にともなって増大した住宅建設需要に対抗した動きでした。国の林業政策の政策的な後押しもあったようです。
ところが、それから30年~40年を経て杉が成木になる頃には、工業製品の輸出と引き換えに外国産木材が大量に安価に輸入されるようになって、杉材の需要が大幅に減少してしまいました。市場が失われ、費用の回収もままならない杉の山林は十分な間伐も行われずに放置されるようになってしまったそうです。
急峻な裏山は根が浅く保水性も小さい杉だらけの森になってしまったところに、最近、気候変動(温暖化)で大雨や集中豪雨雨が増えてきたので、土砂崩れが非常に心配されるようになっているとのことです。
▲見おろす形で家並みを眺める
◆古民家が連なる家並みが美しい◆
個々の古民家は確かに素晴らしく美しいのですが、私としては集落としての美しさ、つまり軒を連ねる家並みの姿、いくつも集まった古民家群の素晴らしさに強く印象づけられました。そこで、このページではいくつもの古民家からなる家並みの形を写した写真をより多く掲載したいと思います。
家々が横に並び、あるいは縦に連なる姿というものは、人びとが山間で肩を寄せ合い協力し合って暮らしている、そういう村落のあり方を表現しているようで、何やら心穏やかになるのです。とはいえ、それはすでに過去の姿で、今では実際に居住しているのは4世帯だけになってしまった過疎の集落なのですが。
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