▲境内西端に並ぶ石仏群
▲枝垂れ花桃の下に並ぶ石仏
▲お堂の内部の様子
平安時代の後半から諸国の荘園の多くは寺社領となり、荘園所領の治安や行政は武力をもつ豪族たちが担うようになりました。彼らはやがて武士として地頭領主身分を構成することになります。
千国庄も諏訪大社下社の所領となり、神官役を兼ねた武家が統治を担い、彼らの家臣である地頭領主たちが農村開拓を指導し、自らの所領を保有支配することになっていきました。仁科氏も有力武家の一門で、その家臣として塩島氏がこの地方に城を築いて一帯を支配していました。
室町時代の15世紀半ば、信濃守護の小河原氏が千国庄を諏訪大社下社の所領として安堵し、地方統治を担う地頭として城主、塩島氏の地位を認めたとする資料があるとか。
戦国時代後期(16世紀半ば)には塩島氏は、信濃攻めを繰り広げた武田家に臣従しますが、背反を疑われて武田家によって謀殺され、その後、疑いが晴れて所領を回復されたのだとか。
そういう物語の舞台となったのが、この塩島集落がある一帯です。
▲棟面の広がりがすごく大きい
▲集落中心部の辻の周りの風景
その頃、暴れ川の姫川や松川、平川の反乱や水害を恐れて、人びとの多くは白馬村の東側の――岩戸山から高戸山にかけて――山の尾根や窪地に集落を形成して住んでいたようです。室町時代くらいから人びとは恐る恐る平地に降りてきて定住を試み、農地を開墾し集落を建設し始めたのでしょう。こうして塩島城下の集落も形成されたのではないでしょうか。
▲塩島城址の麓の様子:八幡神社の西側
▲その昔、ここは城下の街集落があったのかもしれない
現在の集落は、古くても江戸末期から、だいたいは明治以降に形成されたものでしょう。
ここの丘の上に城郭を築いて集落と耕作地の開墾を指導した有力者が、やがて地頭領主となり仁科氏に臣従するようになったのでしょう。城跡を取り巻く杉林は昭和期に地元の住民が植林したもので、それまでは落葉広葉樹が中心の雑木林でした。
城跡がある丘の頂からは、南東に姫川、南の眼下に松川の流れを望みます。塩島城があった頃の城下の集落跡は城山の北麓にあったものと推測されますが、今は水田や荒蕪地になっていて、痕跡は見当たりません。この丘裾は現在の塩島集落よりも2~5メートルほど高い標高にあって、水難を避けられる位置にあります。
松川と楠川の推理が利用できる肥沃な河岸段丘にあって、そのうえ北越から通じる塩の道が通る要衝であってみれば、塩島氏がここに所領を開いた理由が納得できます。
そのころの住民は、松川の大きな氾濫や戦乱にあっては、背後の丘に避難することができました。
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