■往古の面影を探し求めて■
福島宿は街道の幅が6間ほどもあって、信州でも格式が高い宿場と街通りの造りでした。今でも往古の道幅遺構が保たれています。参考資料として長沼宿南端の桝形を見てください。
福島宿は信州の街道のなかでも最も広い道幅を誇っていたはずです。街道の中央には宿場用水が流れ、両畔には松や楓、柳などの樹木が植えられ、美しい景観を保ち旅人に木陰と安らぎを提供していました。
街道に面した各戸は街道両側に幅1間ほどの前庭を設けて、松やツツジ、カエデなど樹木や草花を植え育てていました。【⇒往時の海野宿の姿】
宿場の両端には桝形がありました。桝形とは、石垣や石塁を向かい合わせてクランク状の道筋にして、2回直角に曲がらないと宿場に出入りできない構築物です。もともとは、城郭の防衛のために設けられた軍事設備です。街道と宿駅は、当初は徳川幕府によって軍道(物資の伝馬輸送)ならびに軍事的防衛装置として建設された制度なのです。
そういう起源と伝統から、宿場集落の長が住まいながら、幕府の役人や参覲旅の大名など公用の旅人に休泊場所を提供する建物を「本陣」とか「陣屋」と呼ぶのです。通常、本陣には馬を休養させる厩や刀剣や槍などを保管する武器蔵を備えることが義務づけられていました。本来、本陣とは野戦で諸将が詰める司令部で、四囲を陣幕で囲んだ場所です。
脇本陣は、本陣を補佐する役目を果たしていました。また、本陣や脇本陣を補佐しながら、貨客輸送の継立て業務の管理をおこなうのが問屋です。
蔵の奥に主屋古民家がある
本陣や脇本陣、問屋はまた、街集落の行政を担う名主・庄屋や年寄役を兼務していました。宿場が村であれば、組頭や百姓代が問屋業務の書記係や補佐役を務めることもあったようです。また、本陣や脇本陣に問屋場が付設されている場合もありました。福島宿には脇本陣がなく、その代わりに本陣が竹内家と丸山家の2軒あったそうです。そして、福島は交通頻多だったので、問屋が全体で3軒――竹内家、花井家、斎藤家――あって、交代で継立て業務を務めたのだとか。
福島には北越の雄藩が参覲旅で宿泊することもあったので、問屋は普段は本陣とは分業して別個に貨客の継立て業務を担っていたようです。たとえば加賀前田家のような大藩の宿泊では随行家臣が多数で、本陣と旅籠では収容しきれないため、広壮な家屋をもつ問屋が家臣を分宿させたはずです。寺院の宿坊が休泊所になることも、隣の長沼宿や川田宿に分宿させることもありました。逆に、輸送継立て業務が繁多の場合には、本陣が問屋業務を分担することもあったそうです。
大笹街道(仁礼道)起点の石道標
大笹街道は、ここから東に向かう
福島宿の上町と中町との境界はわかりません。私はここで、大笹街道(仁礼道)が2つの街区の境界線となっていると見なすことにします。
上町北端には、甲州街道松代道と大笹街道との分岐道標があって、ここから大笹街道が東に向かいます。この街道は、福島を出ると田園地帯を南南東に進んで井上村を抜けて仁礼宿にいたります。そこから、菅平高原と鳥居峠を越えて上州の大笹をめざします。
大笹街道は上町北端で松代道に合流するということで、上町は貨客の輸送の要(結節点)です。そこで、ここには本陣丸山家があって、幕府公用の役人や大名、勅使などに休泊サーヴィスを提供していました。ときには、貨客輸送の継立てという問屋業務を担ったそうです。
今でも本陣丸山家の近隣・周囲に大きな敷地の広壮な屋敷がいくつもあります。そのうち3棟は茅葺古民家の屋根にトタンを葺いたもので、造りから見て建築後100年以上を経ていると見られるものです。往時から富裕な家門だったと見られます。
福島宿には、上記のように、問屋として竹内家、花井家、斎藤家がありました。そして、柳屋、笹屋、ろくろ屋、いかりや屋、菊屋などという屋号の旅籠があったということです。これらは、いずれも富裕な家門ですから、上町の大きな屋敷のなかにはこのどれかに該当するものがあるかもしれません。
部分修築したと見られる造りの古民家
構想で美しい造りの古民家と庭園
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