望月宿は天領(幕府直轄地)ではなく、小諸藩の所領に含まれていました。そのせいか、街道宿駅としての伝馬業務を納税として無償で引き受けながら、小諸藩に年貢(地子と呼ばれる)を納めるという二重の賦課を負っていました。要するに税=年貢の二重払いを強いられていたのです。
小諸藩は財政規模が小さく逼迫しがちな貧乏藩で、つまりは取り立てが厳しかったということです。そのため、宿場町の経営が概して厳しい状況だったようです。それでも、街が存続できたのは、稲作をはじめとして物なりが豊かだったからです。古くは大和王権直轄の官営牧場があって、平安時代後期から農耕地と村落が開かれていたという条件が物を言ったのでしょう。
さて今回は、望月宿の街並み景観を楽しみながら往時の面影を探し、宿場の北西端から南西に向かって歩いてみます。
⇒望月宿の街並み・町割り絵図
旧街道を南東に向かって歩き始めてまず見つかるのは、街道右手(西側)の高台にある大伴神社です。道路の脇に大鳥居があって、丘の上の境内に向かう参道が始まります。大鳥居の後方に石段が見えます。この神社にはまたあらためて探訪することにします。⇒探訪記事
大伴神社から70メートルほど先に県道166号が旧街道に合流するT字路がありますが、その30メートル手前、街道左傍らの家並みのあいだに小路があります。小路越しに、望月城主の菩提寺だった城光院という禅宗寺院が見えます。
往時参道だった小路を川の対岸から眺める。自動車がある小路が往時の参道跡。その下の河岸に橋があったという。
小路の対岸で城光院参道跡を探る
この小路は、往時には、街道から城光院への参道の起点だったそうです。今は、小路は鹿曲川の流れによって断ち切られていますが、昔は河床近くから架した橋があって、城光院に向かうまっすぐな小路が続いていたのです。
上掲の写真2枚は、対岸からこの小路を眺めた景観と、反対向きになって城光院への参道跡をたどる景観です。
街並みの家屋の形から、昭和期の建築様式の変遷をたどることができます。
望月の街は、昭和中期の高度経済成長の波に乗って佐久北西地方の商業中心として栄えました。古くからの町割り(敷地割り)は保ちながら、旧街道沿いの商家のほとんどは改築され、建築様式としては中山道の伝統的な出梁(出桁)造りはなくなり、同じ和風建築でも、一階の棟側が道側に出ている様式に構造が変わりました。
さて、県道166号(東御望月線)と出会うT字路を過ぎると、旅籠大和屋(真山家)の町家遺構があります。この家屋は屋根を瓦葺きにしたほかは1766年の再建時の構造をとどめているそうです。真山家は幕末の財政危機のなかで1854年に問屋を兼務することになりました。
大和屋から少し南には脇本陣鷹野家の町家遺構があります。これも古い町家造りの基本構造を保っていますが、一階部分を街道側に増設してあります。鷹野家は大森家の親戚で、1660年代に八幡宿にいた次男がここに移住して脇本陣・問屋を務めることになったそうです。
脇本陣の建物。鷹野家も問屋を兼務していた。
本陣(御殿)兼問屋場跡は歴史民俗博物館となっている
本陣大森家の長屋居住棟跡は大森医院となっている
望月宿の本陣は大森家で、問屋も兼務して、当主が代々久左衛門を名乗っていました。敷地は街道西側で、現在、大森家の御殿・問屋場は歴史民俗博物館(庭園公園付き)となり、北隣の長屋居住棟跡に大森医院があります。本爺の敷地は広大で、間口が18間(33メートル)、奥行きが32間(58メートル)もありました。
現在の歴史民俗資料館は、大名などの賓客を泊める客間御殿や問屋場、土蔵、勝手などの公用空間だった場所だったところです。もちろん、勝手と居住棟は連結していました。
通りを挟んだ向かいには商工会館があって、観光案内所を兼ねています。
向かいの商工会館は観光案内所を兼ねる
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