旧街道を南東に歩き始めてすぐに右手に重厚な町家造りの店舗跡が見えてきます。「ますや(舛屋)」という屋号で、看板サインやシャッターのディスプレイから昭和期には寝具・洋品店だったことがわかります。
間口が狭く奥行きが深い町家造りの基本構造を残しながら、屋根を瓦葺きにし、商売のために一階を道側に広げたと見られます。店舗棟の脇には重厚な漆喰白壁土蔵が、妻面を道側に向けて建っています。
舛屋の間口は6間あったようだ
向かいの空き地の土蔵には「舛」の紋
「ますや」の向かいの敷地は草地(空き地)になっています。奥には「舛」の紋の土蔵があるので、昭和期には舛屋一族の所有となっていたと見られます。
舛屋から一軒おいたところに井出野屋旅館があります。そこの古老に聞いたところ、大正期に旅館業を始めたそうです。大正レトロな建築様式で、外観どおり三階建てです。映画『犬神家の一族』で旅館セットのモデルとなったそうです。映画セットは井出野屋とそっくりにつくられたのだとか。
旧街道を挟んだ向かいには、かつて山城屋旅館だったという古民家があります。間口は8間近くあるので、江戸時代の敷地割りではありません。おそらくは、幕末頃から宿場の家数が減った時期に敷地を買い取って拡幅したのでしょう。
また、二階の高さが、脇本陣や大和屋などの江戸期の古民家と比べると、目立って高いので、建物の建築年代も明治以降から昭和初期にかけてだと見られます。しかし、妻面の梁などを見ると、伝統的な造りを継承した造りです。
井出野屋の少し南には佐久消防団第20分団の基地がありますが、ここは往時、神明宮の参道と境内がありました。その頃、その南の坂道――佐久市役所望月支所前の道路――はなく、神明宮の境内だったのです。境内の奥は、もともと河岸段丘崖だったのですが、道路建設にさいして土を盛って坂にしました。
神明宮社殿は電柱の奥にあった
支所と旧街道とのあいだの地形は、往時と大きく変わってしまっています。ここに道路はなく、神明宮の境内や社叢があったものと見られます。その頃、現在、支所がある段丘の上には森が広がっていたのではないでしょうか。
神明宮跡を過ぎた辺りから旧街道の上り坂の勾配が気になってきます。勾配は伊勢屋食堂の前に来ると、かなり目立ってきます。ここで旧街道は大きく右に曲がります。伊勢屋の南に小路がありますが、この小路は江戸時代からあった小径で、伊勢屋の背後で南に曲がりながら段丘崖を斜めにのぼっていったようです。
曲がり角の頂点辺りには大和屋呉服店跡の町家遺構があって、旧街道歩きではランドマークとなります。
大和屋呉服店の向かいの家並み
前回、大和屋という旅籠兼問屋跡の真山家住居遺構を探訪しましたが、大和屋呉服店は同じ屋号なので、同じく真山家なのでしょうか。そうだとすると、真山家門は望月宿ではずい分繁栄した一族だったのでしょう。呉服店跡の敷地には、店舗の南北両側に分厚そうな白壁土蔵が控えています。
店舗と通りに面したガラス戸も費用と手間をかけた上質な造りのもので、明治から昭和期にかけての望月町の繁栄ぶりを伝える文化財として、現在の遺構を保存し続けてほしいものです。こんな立派で重厚な店舗建物は、木材もないこととて、もう建造できないでしょうから。
大和屋呉服店の隣は、おそらくはかつて旅館を営んでいたかと思えるほどに、広壮な建物です。というのも、玄関の上が入母屋破風となっているからです。玄関脇に「薬用人参製造販売」という表示があるので、かつて薬種問屋または薬剤店だったのかもしれません。
本町と新町との境界は、大和屋呉服店から喜月堂・ライト食堂とのあいだのどこかにあったのではないかと推定できます。江戸時代の町割り図でも、2つの町の境目は示してないようです。
バスターミナル跡前から本町方面を振り返る
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