◆福王寺創建の地は比田井の丘陵か◆
まず、坂上田村麿が遠征の途次、比田井の豪族夫婦に出会って、その妻が施薬や手当ての甲斐なく病死し、その亡骸を比田井の山間に埋葬し、やがて、その夫も死去して、一緒に墳墓に葬られた・・・という物語から考えてみましょう。
田村麿が蝦夷征圧のための戦役をしたのが9世紀はじめですから、古墳という形で豪族を斎葬する風習はすでになくなっているはずです。が、佐久市比田井の王塚古墳の周りはおそらく、古墳時代が終わってからも神聖な場所(墓陵)として人びとから尊崇され、その近隣に豪族夫婦が葬られることはありえたでしょう。墳墓の隣には諏訪社・大宮社が祀られています。
その頃には、大和王権が伝来した仏教思想によって宗教的に支えられていたので、墳墓の近隣には仏教寺院が建立されても当然です。そして、田村麿の遠征では、ただ単に武力で蝦夷を征圧支配するだけでなく、大和王権の権威や正統性を支えるイデオロギーとしての仏教思想や信仰様式を伝達し、慰撫し順応させることも主要な任務だったはずです。
とすると、豪族夫妻の死を仏教思想で弔うために、墳墓を見おろす丘や山腹に密教寺院が創建されたのかもしれません。やがて、寺は空海が帰朝後に系統化された真言密寺院として整備されたのではないでしょう。しかし、伝説をそのまま前提すると、場所は倉見と小平の間の現在地ではなく、比田井の山腹丘陵だったはずです。
護摩堂は寺域の要(軸)となっている
神仏習合の伝統が残っていて、古い神社の祠がある
◆城館跡地に寺院を移設再興したか◆
さて、王塚古墳近辺の豪族夫妻の墳墓を見おろす丘陵ということになると・・・、現在、浄土宗の寶國寺(宝国寺)が位置する高台が最適の地であると見られます。鎌倉末期から室町末期にかけて、古代に隆盛したもののその後に衰微荒廃した寺院を禅宗や浄土宗の修行僧たちが、自らの宗派の寺院として再興する運動が盛んにおこなわれました。最初期の福王寺跡の遺構に寺院が再興され、浄土宗の寶國寺となった可能性はあります。
福王寺が真言密教の寺院でありながら、阿弥陀如来を本尊としていたので、阿弥陀信仰を旨とする浄土宗にとっては、むしろ望ましい条件だったでしょう。寶國寺の高台境内から比田井を見渡すと、そんな歴史があっても奇異ではないと感じます。
他方で、福王寺は衰微したものの、権威や格式の高い寺院として持続させようとする真言密教側の対策も講じられたはずです。おりしも、鎌倉時代に望月氏が比田井から小平にかけて農村開拓の手を延ばし所領を拡大した頃合いで、望月氏は小平の北側の丘陵ならびに天神山に館を築いたものと見られます。望月氏は真言密教の福王寺再興運動を庇護し、小平北部の丘陵の館地を寄進して、堂塔伽藍を再建立したのではないでしょうか。
◆背後の丘の痕跡地形◆
私にとっては望月の隣、茂田井の倉見城跡の存在が大きな謎だったので、北側の尾根筋に倉見城を、福王寺を南側簗裾に抱く丘陵はを探索して回りました。すると、謎は深まるばかりです。
この丘は、蓼科山の北麓――池之平・白樺高原――から北に20キロメートルほど北伸びる長い尾根の先端に位置しています。この先端で北東に突出した丘陵が甕と望月の2つの谷間を隔てています。つまり、この丘は鎌倉時代には甕領と望月領とのあいだの境界「緩衝地帯」であったはずなのです。
石仏の背後の壇上にも墓石が集まっている
鎌倉時代には丘陵の北端近くには倉見氏の館が築かれていて、丘陵の北側の甕領を治めていており、他方、福王寺の現在地にはおそらく望月氏の館があって、丘陵の南側の望月領を統治していたのではないか・・・と考えました。
鎌倉時代は武将領主たちが所領や勢力圏を争奪し合っていたという印象がありますが、芦田・茂田井・望月では隣り合う名門の地頭領主たちが平和裡に同盟し共存していたのではないかと思うのです。だから、望月氏は甕領と隣接する丘陵南麓の館地を福王寺に譲ってを寺を再建立したのではないか、と。
館の周りには家臣の屋敷もあったのですが、領主居館とともに移転し、その跡地(寺領・寺域)にやがて末裔たちが墓地をつくった・・・。丘南面のあちこちに墓地が散在するのは、そういう経緯があったからではないでしょうか。現在、残っている墓石・墓碑は江戸後期以降のものだけですが。
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