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長野県佐久市協和
 
 
伝説の実相を探る


▲阿弥陀堂と本堂とのあいだに横たわる池は回遊式で、島を取り囲んでいる。その島に祀られている弁才天の石祠。

  福王寺の背後に迫る丘陵は、蓼科山北麓に20キロメートル以上も続く長い尾根の先端近くで、寺域の裏手を取り囲むように西から東に張り出しています。この構えは、鎌倉時代の領主館と比類できます。これは、山城を核とした軍事的防衛システムが普及する室町末から戦国時代の領主居館とは仕組みが異なっています。


▲同じく丘の尾根から本堂や庫裏を眺める

  ところで、福王寺の創建と来歴に関する伝説物語(寺伝)は、空隙があまりにも多く、つじつまが合わないところも多く、現寺域とは状況が大きく異なるところに創建されたのではないか、という推定が充分に成り立つ余地があります。
  今回の探索ではその謎に挑み、福王寺の来歴を推定してみます。前回示したように、この寺院が8世紀末から9世紀はじめにかけて、真言密教の修験霊場としてどこか現在地とは別の山裾に創建されたのではないかという仮説について検証を試みることにします。
  現在地の丘陵の1キロメートルほど北には倉見城跡があります。そこは、もともとは鎌倉時代に茂田井の地頭領主として叙任された島津分家の倉見氏の館跡で、御家人を務めた望月氏とは同盟して、丘陵の北側を倉見氏の所領とし、南側を望月氏の所領としたものと見ることができます。
  まあ今回の記事は、史料がないので全然解けない謎を想像で追いかける歴史小説(フィクション)だと思って読んでください。

■寺の来歴を想像する■

▲蓼科山から続く長い尾根の先端が寺域を守るように背後に迫っている。立地条件は絶妙だ。

◆福王寺創建の地は比田井の丘陵か◆

  まず、坂上田村麿が遠征の途次、比田井の豪族夫婦に出会って、その妻が施薬や手当ての甲斐なく病死し、その亡骸を比田井の山間に埋葬し、やがて、その夫も死去して、一緒に墳墓に葬られた・・・という物語から考えてみましょう。
  田村麿が蝦夷征圧のための戦役をしたのが9世紀はじめですから、古墳という形で豪族を斎葬する風習はすでになくなっているはずです。が、佐久市比田井の王塚古墳の周りはおそらく、古墳時代が終わってからも神聖な場所(墓陵)として人びとから尊崇され、その近隣に豪族夫婦が葬られることはありえたでしょう。墳墓の隣には諏訪社・大宮社が祀られています。
  その頃には、大和王権が伝来した仏教思想によって宗教的に支えられていたので、墳墓の近隣には仏教寺院が建立されても当然です。そして、田村麿の遠征では、ただ単に武力で蝦夷を征圧支配するだけでなく、大和王権の権威や正統性を支えるイデオロギーとしての仏教思想や信仰様式を伝達し、慰撫し順応させることも主要な任務だったはずです。
  とすると、豪族夫妻の死を仏教思想で弔うために、墳墓を見おろす丘や山腹に密教寺院が創建されたのかもしれません。やがて、寺は空海が帰朝後に系統化された真言密寺院として整備されたのではないでしょう。しかし、伝説をそのまま前提すると、場所は倉見と小平の間の現在地ではなく、比田井の山腹丘陵だったはずです。


護摩堂は寺域の要(軸)となっている

神仏習合の伝統が残っていて、古い神社の祠がある

◆城館跡地に寺院を移設再興したか◆

  さて、王塚古墳近辺の豪族夫妻の墳墓を見おろす丘陵ということになると・・・、現在、浄土宗の寶國寺(宝国寺)が位置する高台が最適の地であると見られます。鎌倉末期から室町末期にかけて、古代に隆盛したもののその後に衰微荒廃した寺院を禅宗や浄土宗の修行僧たちが、自らの宗派の寺院として再興する運動が盛んにおこなわれました。最初期の福王寺跡の遺構に寺院が再興され、浄土宗の寶國寺となった可能性はあります。
  福王寺が真言密教の寺院でありながら、阿弥陀如来を本尊としていたので、阿弥陀信仰を旨とする浄土宗にとっては、むしろ望ましい条件だったでしょう。寶國寺の高台境内から比田井を見渡すと、そんな歴史があっても奇異ではないと感じます。
  他方で、福王寺は衰微したものの、権威や格式の高い寺院として持続させようとする真言密教側の対策も講じられたはずです。おりしも、鎌倉時代に望月氏が比田井から小平にかけて農村開拓の手を延ばし所領を拡大した頃合いで、望月氏は小平の北側の丘陵ならびに天神山に館を築いたものと見られます。望月氏は真言密教の福王寺再興運動を庇護し、小平北部の丘陵の館地を寄進して、堂塔伽藍を再建立したのではないでしょうか。

◆背後の丘の痕跡地形◆

  私にとっては望月の隣、茂田井の倉見城跡の存在が大きな謎だったので、北側の尾根筋に倉見城を、福王寺を南側簗裾に抱く丘陵はを探索して回りました。すると、謎は深まるばかりです。
  この丘は、蓼科山の北麓――池之平・白樺高原――から北に20キロメートルほど北伸びる長い尾根の先端に位置しています。この先端で北東に突出した丘陵がもたいと望月の2つの谷間を隔てています。つまり、この丘は鎌倉時代にはもたい領と望月領とのあいだの境界「緩衝地帯」であったはずなのです。


石仏の背後の壇上にも墓石が集まっている

  鎌倉時代には丘陵の北端近くには倉見氏の館が築かれていて、丘陵の北側のもたい領を治めていており、他方、福王寺の現在地にはおそらく望月氏の館があって、丘陵の南側の望月領を統治していたのではないか・・・と考えました。
  鎌倉時代は武将領主たちが所領や勢力圏を争奪し合っていたという印象がありますが、芦田・茂田井・望月では隣り合う名門の地頭領主たちが平和裡に同盟し共存していたのではないかと思うのです。だから、望月氏は甕領と隣接する丘陵南麓の館地を福王寺に譲ってを寺を再建立したのではないか、と。
  館の周りには家臣の屋敷もあったのですが、領主居館とともに移転し、その跡地(寺領・寺域)にやがて末裔たちが墓地をつくった・・・。丘南面のあちこちに墓地が散在するのは、そういう経緯があったからではないでしょうか。現在、残っている墓石・墓碑は江戸後期以降のものだけですが。


寶國寺の門前から比田井の集落と墓陵を見おろす▲


庫裏・客殿の背後の丘から小平の水田地帯と集落を見渡す

山門(仁王門)をくぐったところで、鐘楼と本堂を見上げる▲

碑には禅の心得が刻まれているのだろうか▲

背後の尾根にから寺域西端を見おろす▲

背後の尾根に残る段郭または切岸曲輪の跡らしい地形▲
掘り下げ均された平坦地は栗畑だったようだが、緩やかな傾斜を残し
たまま曲輪として利用したかのように、広い面積が平坦化されている。


畑の跡としては破格の比高1メートルほどの切岸跡と思える段差▲
栗畑として利用するなら、これほど深く掘り下げる必要はなかろう。
室町後期から戦国時代にかけての山城の曲輪または砦陣屋があった痕跡か。
山城とはいっても、戦国時代の荒々しい構造ではなく、麓の農村の
作付けや作柄を高台から検分するための陣屋という感じがします。


本堂の背後の丘の道脇に立つ馬頭観音(石仏)▲

丘のあちこちに墓標群の塊が散在している▲

往古、館の周囲に家臣団の集落があったのか。屋敷跡に墓があるのか▲

茂田井-望月丘陵歴史散策コース

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