◆金山神社から海学院まで◆
金山神社を出て千国街道の遺構に造られたと思われる小径を、古い時代の痕跡を探しながら南に歩くことにします。この集落の古老たちの話では、この道を千国街道(塩の道)と呼んでいるそうです。ただし、昭和前期まであった道の起伏や曲折は耕地整理にともなってほとんどなくなったそうです。
さて、街道の東脇――海岳院から200メートルほど北――に200坪ほどの方形の草地があって墓が並んでいます。切り株の跡からすると、十年ほど前には針葉樹の叢林があったようです。独特の雰囲気の空き地で、往時は寺院(小堂)があったのかもしれません。海岳院跡とも言われています。
この草地には墓地が並ぶ: かつて寺があったか?
野菜畑の隅に3体の馬頭観音が並ぶ
その草地の斜向かい、街道の西脇の菜園の隅に3体の馬頭観音が並んでいます。古い時代の街道がこの石仏の脇を通っていたのかもしれません。
この辺りには「祈りの道」としての千国街道の面影が残っていて、金山神社のほかに蚕玉神社・大黒天の碑、その隣に海岳院があります。海学院の境内西端には多数の石仏が集められています。
さて、この辺りの地形を見ると、金山神社はきわめて緩やかな傾斜の丘の頂部に位置しています。この丘陵の背のひとつは東に延び、もうひとつは南東向きに海岳院の辺りに向かって延びています。
千国街道が海岳院の南側から南東に向かって進むのは、少しでも標高の高い丘陵の背に沿っていると言えるでしょう。そのため、街道小径はしだいに南東方向に緩やかに曲がっていきます。
この傾斜の向きは農業用水の流路として現れます。小熊山系の尾根の南端から始まった用水は、金山神社の南で南東に向きを変え、そのまま街道に並行して流れ下っていきます。街道が国道148号と出会う手前で用水は2つに分岐し、逗留する水路はそのまま南東に流れて農具川に合流します。南に向かう水路は大町市街に入り、若一王子神社の西側を流れた後、暗渠になります。
土蔵の正面(南側)の様子
丘の背に沿って小径は緩やかに南南東向きに曲がる
蚕玉神社から100メートルほど南の小径の東側に蓮田があります。ここは沼でも湿田でもなく、冬には乾田になるところで、蓮根の栽培というわけでもないようです。夏に花を楽しむためでしょうか。平安時代から鎌倉時代にはこの辺りは湿原で、こんな風景が広がっていたのかもしれません。
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