天台宗釈尊寺は御牧原台地の北端の断崖に位置しています。「御牧」という名称がつけられたのは、古代からこの辺りの高原草原では大和王権に納める馬を飼育する官牧(王権直轄の牧場)がいくつもあったからです。大陸から持ち込まれた大型の馬に跨った騎馬兵団は、古代日本列島では圧倒的でまさに無敵の軍事力で、王権の勢力拡張に大いに役立ちました。
古代大和王権の権力と権威の伝達に不可欠だった馬を生産する信州の馬牧場は、王権にとってきわめて重要なものでした。そのため、峻険きわまりない信濃の山岳高原を横断する東山道(後の中山道や三州街道)を切り開いたのは、主に牧場の管理統制と馬の輸送のためだったのです。その道はまた王権による遠征のための軍路ともなりました。
▲崖下の石段参道
▲手摺りがあるので危険はあまりない
▲朽ち始めた倒木の脇を往く
信州の高原は造山活動によって海底から隆起してきたので、なかには馬の飼育に適した石灰質を含んだ土壌もあります。ということはカルスト地形になりやすいため、断崖岩稜がつくられやすいということになるでしょう。
峻険な岩稜と宗教というキイワードでただちに私が連想するのは「密教」と「修験」。密教が日本に本格的に伝来し普及するのは9世紀。遣唐使に随行した空海を含む学僧たちの研究と活躍によるものだとか。布引渓谷の険しい地形に置かれた天台の古い寺院となれば、やはり密教修験に関係があるだろうということになります。
釈尊寺寺伝によると、開創は724年(神亀元年)で行基によるものだとか。行基は東大寺の大仏建立を指導した高僧で、寺の草創は彼が各地を修行遍歴していた若い頃です。真言と天台の密教が本格的に研鑽されるのは、9世紀になってから。とはいえ、役行者による山岳修験道は7世紀末までに草創されていました。自然信仰と山岳修行がやがて密教と結びつきます。
ところで、公式の仏教伝来は6世紀半ばだとされていますが、朝鮮半島や中国大陸からの帰化人または亡命者による仏教の局地的な伝達と受容は、それよりもずっと前からありました。ことに信州各地では、迫害を逃れてきた帰化人たちが山間にいくつも隠れ里集落を営んでいたようです。
信州の峻険な山岳や低山でも断崖など険しい地形には、相当に古くから観音信仰の拠点がつくられてきました。この布引観音(釈尊寺)もまた、そういう歴史を引き継いでいるのかもしれません。
さてここでは、崖を200メートル以上ものぼる参道の景観写真を仁王門まで掲載してみました。登り口からは、ほぼ西に向かってジグザグのつづら折りの小径を往き、仁王門まで達します。そこから南西向きにこれまたジグザグ小径を登り、石垣で補強された崖の踊り場のような壇上の寺本堂の前で曲がって進行方向を逆(北東)向きにします。
▲仁王門の阿形と吽形
近隣住民の話では、以前は山頂近くの岩棚に展望台があって、素晴らしい眺望が得られたのが、危険だということでなくなったそうです。
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