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長野県小諸市大久保
 

 
断崖壇上の堂宇に詣でる  


▲釈尊寺の本堂と庫裏などの堂宇: 断崖の踊り場のような岩棚壇上にある


▲岩屋洞に埋め込まれた太子堂: 行基が聖徳太子の手になる聖観音像を祀ったという

  釈尊寺の山号の「布引」にはいくつか意味があります。古代の相撲で力士たちが布を引き合う儀式とか、人びとの列が連綿と絶えることなく続くさまとか・・・。しかし、釈尊寺の山号の布引は、不信心で強欲な老婆を長野善光寺まで牛が導いた伝説によるもののようです。
  千曲川で老婆が布を晒していたとき突然現れた牛が角で布を引っかけたので、老婆が布を取り返そうとして牛を追いかけているうちに善光寺の金堂前にたどり着いた、という説話です。


▲崖縁で木組みの櫓に支えられた観音堂

  牛はそこで消え去り、老婆はそこで改心して信心に目覚め、金堂に一晩こもって阿弥陀如来に祈りを捧げ懺悔しました。やがて家に帰った老婆は、布引山の岩角にあの布がかかっているの見つけ、布を取り戻したいと念じるうちに布とともに石になってしまったのだとか。
  あの牛は、老婆を善光寺の阿弥陀如来の許に導くために観音菩薩が姿を変えたものだったということです。布引観音・釈尊寺は北国街道すなわち善光寺道(千曲川の対岸を通る)沿いにあるので、善光寺とはゆかりがあります。

■釈尊寺の歴史と堂宇めぐり■

◆古い由来の仏教と牧場◆

  平安時代に編纂された『延喜式』は、大和王権によって編纂された律令格式(法令集)で、朝廷から見た各地方の制度の位置づけが表記されています。それには、御牧原台地にはいくつか官牧(王権の馬牧場)があったことが記録されているそうです。

  御牧原台地には6世紀ごろから帰化人が集落をつくり、牧場を開拓していたようです。そういう基礎があったからこそ、大和王権が統括する官牧が営まれるようになったといえるでしょう。そういう背景があって、南北朝時代の古代中国や朝鮮半島の新羅や百済から仏教が信州の山間部にもち込まれ、受容されていったのでしょう。


▲護摩堂の上の切り立った岸壁

▲洞に埋め込まれたような白山社

▲懸崖の参道

◆鎌倉時代の寺院建立◆

  大和王権は仏教を権力保持と拡張のための思想や文化装置として運用したのですが、やがて遣唐使に随行した学僧たちによってが仏教そのものの改革として密教運動が起きたようです。
  さて、時代は下って官牧が王権直属の役人(地方豪族)によって管理されるようになり、そのなかから望月氏や滋野氏などの家門が台頭し、その一門がやがて官牧の経営と軍事的防衛を担う有力な武家領主となっていきます。
  彼らは育成した馬を都に納めに出向き、機内で隆盛流行の仏教文化にも触れ、信濃にもち帰り、寺院神社の建立造営や修復・再建にさいして、洗練された新たな仏教思想と様式を採用したことでしょう。それが、すなわち科野での彼らの権威を高める手段ともなりました。

  この布引山釈尊寺もまた鎌倉時代に、そのような文脈において古い起源を引き継ぎながら、天台の寺院としてあらためて開基されたものとみられます。
  この寺には、鎌倉時代(13世紀)の文物としては観音堂の宮殿、護摩堂の本尊としての大日如来像などがあります。さらに室町時代のにつくられた白山神社も有名です。

◆古い由来の仏教と牧場◆

  仁王門で一休みし、そこから崖に囲まれた谷間のつづら折れの小径をふたたび登りきった岩棚壇上で、私たちはこうした建築物や文物を見て回ることができます。この岩棚壇と参道は、布引の岩山断崖の頂部近くにあります。
  石垣で支えられた壇上の本堂は、屋根がもともと板葺でしたが、今は銅板葺となっています。とはいえ、板葺づくりの頃の端正な美しさは今でも保たれています。そこから崖の縁を北東に回り込む参道で、護摩堂、白山社、太子堂、愛染明王堂、そして端末の観音堂までたどることができます。
  寺の堂宇が並ぶ崖縁の岩棚壇上は、頂上間近とはいえ、堂宇の屋根の上にはまだ切り立った岸壁がせり出しています。何百年も前にどうやってこんな険しい岩稜の縁に寺院を建立したのか、古(いにしえ)の人びとの知恵と勇気、想像力には脱帽しかありません。

  こんな断崖になぜ、いかにして寺院を建立したのでしょうか。「なぜ」には答えが出せそうです。まさに自然の脅威で、往時の人類には計り知れない「神の業」としか思えなかったからで、そこに信仰の拠点を築くことで神や仏の境域に近づきたかったからではないでしょうか。


釈尊寺の庫裏と本堂: 前は崖

本堂はほぼ東向き

岩屋洞に埋め込まれたような護摩堂

崖の縁を往く観音堂への参道

白山社と護摩堂を振り返る

隧道の端の観音像

岩壁面に棟面を合わせた太子堂

隧道を出ると、岩庇の下に並ぶ石仏群

これなた岩窟にはめ込まれた愛染明王堂

小堂宇の上は岩稜が続く

観音堂は半ば岩窟に埋まっている

観音堂は懸崖からせり出している


▲観音堂を支えているのは岩棚ではなく、木組みの櫓。古くは岩庇の下にあた洞の
なかに本尊を祀る須弥壇だけがあったようだ。のちに覆い屋(蓋殿)として観音堂が
つくられたのだろう。


▲断崖の谷間から見える風景


岩壁の先に見えるのは、千曲川対岸の小諸市の市街地と「しなの鉄道」の橋梁。 
曇りでなければ、浅間山の山頂が見えるはずだ。▲

 

◆布引山釈尊寺 Googleマップ◆

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