◆古い由来の仏教と牧場◆
平安時代に編纂された『延喜式』は、大和王権によって編纂された律令格式(法令集)で、朝廷から見た各地方の制度の位置づけが表記されています。それには、御牧原台地にはいくつか官牧(王権の馬牧場)があったことが記録されているそうです。
御牧原台地には6世紀ごろから帰化人が集落をつくり、牧場を開拓していたようです。そういう基礎があったからこそ、大和王権が統括する官牧が営まれるようになったといえるでしょう。そういう背景があって、南北朝時代の古代中国や朝鮮半島の新羅や百済から仏教が信州の山間部にもち込まれ、受容されていったのでしょう。
▲護摩堂の上の切り立った岸壁
▲洞に埋め込まれたような白山社
▲懸崖の参道
◆鎌倉時代の寺院建立◆
大和王権は仏教を権力保持と拡張のための思想や文化装置として運用したのですが、やがて遣唐使に随行した学僧たちによってが仏教そのものの改革として密教運動が起きたようです。
さて、時代は下って官牧が王権直属の役人(地方豪族)によって管理されるようになり、そのなかから望月氏や滋野氏などの家門が台頭し、その一門がやがて官牧の経営と軍事的防衛を担う有力な武家領主となっていきます。
彼らは育成した馬を都に納めに出向き、機内で隆盛流行の仏教文化にも触れ、信濃にもち帰り、寺院神社の建立造営や修復・再建にさいして、洗練された新たな仏教思想と様式を採用したことでしょう。それが、すなわち科野での彼らの権威を高める手段ともなりました。
この布引山釈尊寺もまた鎌倉時代に、そのような文脈において古い起源を引き継ぎながら、天台の寺院としてあらためて開基されたものとみられます。
この寺には、鎌倉時代(13世紀)の文物としては観音堂の宮殿、護摩堂の本尊としての大日如来像などがあります。さらに室町時代のにつくられた白山神社も有名です。
◆古い由来の仏教と牧場◆
仁王門で一休みし、そこから崖に囲まれた谷間のつづら折れの小径をふたたび登りきった岩棚壇上で、私たちはこうした建築物や文物を見て回ることができます。この岩棚壇と参道は、布引の岩山断崖の頂部近くにあります。
石垣で支えられた壇上の本堂は、屋根がもともと板葺でしたが、今は銅板葺となっています。とはいえ、板葺づくりの頃の端正な美しさは今でも保たれています。そこから崖の縁を北東に回り込む参道で、護摩堂、白山社、太子堂、愛染明王堂、そして端末の観音堂までたどることができます。
寺の堂宇が並ぶ崖縁の岩棚壇上は、頂上間近とはいえ、堂宇の屋根の上にはまだ切り立った岸壁がせり出しています。何百年も前にどうやってこんな険しい岩稜の縁に寺院を建立したのか、古(いにしえ)の人びとの知恵と勇気、想像力には脱帽しかありません。
こんな断崖になぜ、いかにして寺院を建立したのでしょうか。「なぜ」には答えが出せそうです。まさに自然の脅威で、往時の人類には計り知れない「神の業」としか思えなかったからで、そこに信仰の拠点を築くことで神や仏の境域に近づきたかったからではないでしょうか。
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