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長野県佐久市望月
 

  ▲大伴神社の参道石段から大鳥居を眺める。この神社は大伴氏の系譜を引くとされる望月氏が創建・庇護したという。
  望月の神社と寺院をめぐってみましょう。大和王権が直轄した望月牧(馬牧場)は8世紀はじめに開設されたそうです。この一帯を統治した滋野氏のうち、望月牧を管理する役人(牧監)を務めた一族に、都での献上馬の披露目の式典を「望月の駒」と呼んだことを機縁として王権から望月の姓を与えられたそうです。
  その望月氏との結びつきを由緒とする古い寺社もいくつかあります。望月の信仰や祈りの場を訪ねて、歴史と文化を探ってみましょう。

 
望月牧との深い関連


▲大伴神社の境内と社殿: 見えているのは拝殿で、背後の本殿がある

  神社の号となっている大伴氏は、古墳時代の豪族で、5世紀末に大和王権を支える大連おおむらじ(最有力の豪族連合)となった家門です。伝説によると、望月牧を統治した望月氏は、大伴氏の末裔だということで、この神社の創建にあたって社号を決めたようです。
  そういう由緒から主祭神は、大伴武日おおとものたけひという国づくり神話の神です。祭神にはほかに月読命つくよみのみこと武居大伴たけいおおともが名を連ねます。


▲境内から石段参道と大鳥居を見おろす。宿場街よりもひとつ上の段丘に境内がある。

  武居大伴は諏訪土着の古い神で、諏訪大神タケミナカタに仕えることになったという神話伝説があります。望月氏は、古い神々を祀ることで、自らの家門の古さ格式を強調したかったのではないでしょうか。
  望月氏は平安時代から戦国時代まで長期にわたって、この一帯を統治した有力領主でしたが、戦国末期近く1582年に、徳川勢の依田信蕃に侵攻され望月城は落城、望月家も没落することになりました。これで大伴神社は有力な庇護者を失いました。
  ところが、古い由緒来歴を備えた格式ある寺社を地方統治の手段として活用する徳川幕藩体制のもとで、社領は保たれることになりました。

■宿場街を見おろす高台の神社■

  望月宿は、鹿曲川の一番下の河岸段丘の上に位置しています。中山道沿い西側の家並みは、奥行きが30メートル前後で、その背後には段丘崖が迫っています。街道と上の段丘面との高低差は7~10メートルほどです。段丘崖は市役所望月支所から北西方向に、街道とだいたい平行に続いています。⇒望月の段丘地形
  ただし、本陣の辺りは上の段丘は西側に大きく凹んでいます。本陣の御殿などの家屋町家は、この平坦部を利用して東西方向に幅広い――奥行きが深い――敷地となっています。

  大伴神社の境内は、望月宿の街並みの北西端にあるこの段丘上にあります。鹿曲川を挟んで対岸の台地丘陵の峰の上には、望月城跡が眺められます。望月城の主郭ならびに領主居館からすると裏鬼門にあたる位置です。
⇒望月宿の河岸段丘地形
  宿場街よりも7メートルほども高い段丘上に大伴神社が創建されたということには、創建時の平安~鎌倉時代には、江戸時代に街道と宿駅街が建設されることになる下の段丘は鹿曲川の水害の危険がきわめて大きかったので、神社やその周りの集落は、現在地の辺りにつくるしかなかったのでしょう。そういう地理的環境だったということです。
  下の段丘に水田や村落を形成するようになるのは、室町後期になってのことだと見られます。


南端からの境内の風景。道祖神や石祠などの一群が左手の木立の下にある。


境内の南西端の崖の縁から街を見おろす

  しかし、神社の周囲の集落は規模が相当に小さかったのではないでしょうか。というのは、鹿曲川の対岸の御牧原台地の上に望月氏の城砦があって、家臣団や農民たちが暮らす集落は、城砦の周囲にあって、そこには冷涼ながら肥沃な大地に広大な農耕地が開かれていたようだからです。
  今でも、台地上の城跡の近隣には広大な水田地帯があります。しかし、城下街や集落の痕跡はまったく見られません。近現代の耕地開拓・整備で、遺構は失われたようです。
  大伴神社は、境内の端から鹿曲川と旧宿場街を見おろし、対岸の城跡を遠望しながら、過ぎ去ったそういう時代を想像するのに適した場所です。
  ところで、大伴大社の祭神のひとつとなっている武居大伴主という神様は、神話伝説によると洩矢神(モリヤ神)とともに諏訪地方の古い神(先住の有力豪族)で、出雲から諏訪地方に大和王権から追われたタケミナカタによって征服されて臣従することになったそうです。
  モリヤ神が上諏訪(湖南地方)の神=有力豪族であったのに対して、おそらくは下社の豪族で、彼らもまた外部から豊かな諏訪地方に来て先住民を征服支配することになったようです。モリヤ神が狩猟をする戦士の要素が強い豪族だとすると、農耕を主にする温和な一族だったとも伝えられています。
  中山道は、古代の東山道の遺構に沿って開削された部分も多いようなので、諏訪地方から和田峠を越えて御牧原と佐久に向かう途次にある望月に、諏訪の古い豪族の一族が来るのは、たしかにありそうなことです。タケミナカタに臣従するのを潔しとしなかった一族なのかもしれません。


街道よりも7メートルほど高い段丘にある大伴神社境内にのぼる石段▲

拝殿は昭和期に修築または改築したようだ▲

拝殿の内部の様子。奥に1688年建立の本殿が安置されている▲

拝殿奥の本殿覆い屋(蓋殿)▲

社殿から4メートルほどに段丘崖が迫る。崖下が宿場街。▲

大伴神社の境内近くの段丘崖上から街を見おろす▲

  大伴神社には、神明宮(伊勢社)も合祀されています。神明宮は、明治初期までは、現在の佐久市役所望月支所の東側の段丘崖下、中山道の曲がり角手前の西側にありました。明治政府の神社合祀令によって、大伴神社に合祀されたようです。
  また、大伴神社の境内の片隅、杉並木の下には、道祖神など、たくさんの石製の神様や石祠が並んでいます。これらの民衆の素朴な自然神信仰の象徴は、やはり合祀令にともなってここに集められたのかもしれません。あるいは、近隣の水田開発や圃場整理でここに移設されたのかもしれません。


社伝の前(南西側)の杉並木の下は道祖神や石祠が並ぶ▲

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