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長野県木曽郡南木曽町
 
  はるか遠い昔、木曾川が標高にして今よりも40~50メートル上を流れていた時代があったようです。十二兼の高台上の集落がある場所は、数万年以上も昔に木曾川が流れる谷底だったのです。
  やがて木曾川は断層や岩盤の割れ目など地盤の脆い場所に落ち込んでいきながら、周りを浸食してさらに深い現在の木曾谷を形成することになりました。
  写真は、十二兼の北端の家並みです。中山道は、ここから北に向かって崖を降りていきます。

崖の上の集落を往く


熊野神社から始まる十二兼の集落:家並みの背後の樹林は熊野神社の社叢

  旧中山道には、ことのほか険しい地形にあって、地形をよく知らない外からの旅人がクルマでは近寄れない場所がいくつもあります。古くからの十二兼の集落もそういう場所に位置しています。
  険しい崖をのぼって高台上の集落に入り、崖を下って河岸に降りて次の集落に進む、それが中山道十二兼を往く旅となります。でも、村の規模は大変に小さいのですが、風光明媚で見どころたくさんの、日本の原風景のひとつです。
  そしてまた地形図から見ると、木曾川と与川と二反田川によって囲まれた山域はひとまりの地理的空間をなしています。古来、野尻城山から十二兼袖山にいたる山域は密教修験の場となっていたと見られます。

■古来、密教修験の村だったか■

■国道下の水路トンネル■

  十二兼じゅうにがね駅の近くにも小さな集落がありますが、十二兼の本来の中心集落に行くためには、駅から500メートルほど北に歩いて、国道19号の真下を流れる水路に沿ったトンネルをくぐらなければなりません。
  この水路は熊野神社の脇を流れ下る沢で、「熊の沢」と呼ばれているようです。古くは「熊野沢」と記されたかもしれません。十二兼の東に迫る尾根には熊野社跡があり、その背後の峰は古代から熊野信仰による山岳修験場だったと見られます。そのため、この尾根の南側の鞍部から流れ出る水路が熊野沢と呼ばれるようになったものと思われます。


十二兼駅から歩いてきた道を振り返る


この大きな木の下の谷に水路トンネルがある

■十二兼という不思議な地名■

  十二兼じゅうにがねという集落にはいくつもの深い謎が付きまとっています。まず「十二兼」という不思議な名称は何を意味するのか。次いで、よりによって崖の上の険しい場所になぜ、いかにしてに集落が営まれてきたのか。さらに、旧中山道はなぜ難所のこの村を通る経路となったのか。
  ほかにも歴史地理の謎がいくもあるのですが、この3つの大きな謎を頭に置きながら、この集落をめぐることにします。

  日本各地にある熊野神社とは、熊野三山または三所権現――熊野川を御神体とする熊野本宮大社(本宮)、滝を御神体とする熊野那智大社(那智)、岩山を御神体とする熊野速玉大社(新宮)――の勧請を受けた神社を意味するそうです。古来、大和王権や公卿の熊野詣でとか、有力貴族による荘園の寄進、各地に熊野権現の威光を伝達して歩いた熊野先達の活動をつうじて全国に熊野信仰が広まって、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国いたるところに建立されました。
  熊野三山を中心とする熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現に加えて、さらにほかに9つの権現――如来や菩薩、仏神の化身としての神々――が祀られていて、十二所権現(十二社)とも呼ばれています。
  権現の前に「所」をつけるのは古い修験道では、自然信仰の風習によって山や川などの自然物としての場所そのものを神の「よりしろ」として崇拝したからでしょう。思想史的には、仏教思想によって権現として定式化される以前に、自然物・場所が神が宿る場としてる崇拝=信仰の対象になっていたのです。
  というわけで、熊野信仰には「十二所」というものが結びついているのです。そして、この集落には熊野社があって、熊野三山を含む十二所権現が合同して祀られてきました。
  これで集落の名称のうち「十二」という部分は「十二所権現」として理解できます。では、兼(がね)という部分はどういう意味合いなのでしょうか。これは当て字で、本来は帰属関係を表す格助詞「が」と「根/嶺」が合わさった語のようです。そうすると、「じゅうにがね」とは、「熊野三山を含む十二所権現が祀られた尾根または峰」という地名を意味しているわけです。
  この一帯の険しい峰は、古来から熊野信仰にもとづく山岳修験の行場だったのではないでしょうか。もちろん、9世紀に天台や真言によって密教が体系化されるよりもずっと古い山岳信仰と修行の場だったのです。熊野社を祀り、修験者たちの修行と生活の拠点だったがゆえに、十二兼と呼ばれるようになったのです。

■失われた修行=信仰の場■

  原始的な自然信仰のひとつの形態として熊野信仰が木曾路におよんだのは、9世紀よりも前だったと見られます。古代に拓かれた官道、吉蘇路/東山道またはその脇道は、あまりに険阻な木曾谷では木曾川の氾濫や土砂崩れによって容易に荒廃しがちなものでした。ゆえに、開削建設と荒廃・廃道が繰り返されたようです。
  しかし、聖武天皇による国分寺・国分尼寺の建立の政策が進展し、さらに東大寺と廬舎那仏(大仏)の造立が計画されると、建築材としての森林資源(木材)はもとより、銅や金銀などの鉱物資源尾探索のために行基が率いる山岳信仰の修験者たちが山岳高原、深山幽谷を探索して回るようになったはずです。


街道脇に石垣で縁取られた畑地


家並みの間に割り込んだ畑作地
●この辺りに立場跡があったそうだが、道路の整備などで遺構は消滅してしまったらしい。立場とは、もともとは馬方や牛方、歩荷役たちが立ったまま休憩する場所だったが、やがて簡易な茶屋が設けられたりした。街道人足立が集まるので、情報交換(噂の伝達)の場となったという。

  探索の手は険阻な木曾谷にもおよんだでしょう。そして、与川渓谷や十二兼の辺りは――森林や鉱物資源探査も兼ねて――密教修験の場として注目され、熊野権現社(十二所権現)が勧請・創建され修行の拠点となったと見られます。修験者たちの山岳探索と回行修行の基地ともなったのではないでしょうか。
  原始的な神仏習合風習のなかでここに集落(修験霊場)が建設されたと見られます。十二所権現が祀られた高台尾根と背後の山並みは修験者たちの生活の場となったでしょう。これがこの集落の起源です。
  この集落は山間にただひとつ孤立してわけではなく、もっと開けた盆地をなす妻籠や福島、野尻、須原などの近辺にも修験の拠点や都との中継補給拠点が建設されたでしょう。
  やがて鎌倉~室町時代になって古中仙道またはその前身の連絡路がつくられるさいには、これらの山間の集落を結ぶ経路として開削されたものと見られます。戦国末期から江戸時代初期にこの経路は中仙道となり、険阻な山中にある僻遠の集落、十二兼も街道交通の中継拠点となりました。
  しかし明治維新で神仏習合の伝統が破壊され、修験者の身分も廃止禁圧されるようになります。明治政権のもとで文明開化への道をひた走るようになると、古くからの修験の拠点は経済発展の道から取り残され、消滅していったのではないでしょうか。


北端の家の作業屋は木組み細工の水車の工房


道を挟んで向かいには石仏群がある

■村での出会い■

  十二兼の高台北端の「花戸」という屋号の家のお爺さんと知り合うことができました。倉庫を工房にして木組み細工の水車を製造しているそうです。
  釘を全く使わない、貫などで組む実に精密な造りの小型水車で、顧客の要望に応じて、木工だけで交差軸の歯車を組み合わせて、模型の粉挽杵や発電装備を組み立てています。


駅から500メートル北の街道脇に竹藪が目印▲


くまの沢の谷に降りていく細道▲


これが水路トンネルのなかの様子: 足場を組んだ仮説の遊歩道▲


国道の反対側(東側)に出ると、急坂が待っている▲



この石垣の崖の上に熊野神社がある▲


熊野社境内の北側にある集落は修験の拠点(宿坊街)だったか▲


家並みの南端に熊野社の境内社叢が位置する▲



熊野社脇の集落から北に少し離れたところに別の家並みがある▲


伝統的な棟入本棟造りの広壮な古民家▲


街道を北に進み少し離れて眺めると、こんな形状の家屋だ▲


来し方を振り返ると、街道東脇に山腹が迫る▲


集落北端の家並みの東側に山腹が迫っている▲


この先が高台の縁の崖で、急坂を降りて八人石に向かうことになる▲

集落の北端から下る坂道で振り返り、崖の縁に並ぶ石仏群を眺める▲

岩の上には馬頭観音などの石仏群が建ち並んでいる。ここは、十二兼の
集落の北端で、八人石沢を見おろす崖の縁だ。中山道は、八人石沢から
は10メートル以上も崖をのぼって高台を通ることになる。しかし、木曾川の
河畔を安全に南に進むためには、この高台を往くしかなかったのだ。
しかも、熊野権現を祀る古くからの集落があって、旅人に休泊や飲食、
緊急のさいの手当てを提供できる場所だった。中山道は、十二兼の集落を
経由することになった。

  お爺さんには、道を挟んで向かいにある石仏群や二十三夜塔について説明していただきました。彼は中津川からこの集落の家に婿入りして、公務員退職後に模型と言うべきほどに小型の水車を木組み細工だけでつくる仕事を開発したそうです。
  矍鑠としていて、すでに80歳を超えていらっしゃるとか。この方には、水車づくりだけでなく、石仏群や二十三夜塔など近隣の地理や歴史についても教えていただきました。
  またお会いする日を楽しみにしています。お元気で。


屋号「花戸」の工房で作業中のお爺さん


集落から国道まで比高20メートル崖を下ることになる▲


滝沢の堰堤上から崖を下る道路の曲折の様子を眺める▲

  この集落の家並みを見ると、屋敷地は広く、建物の規模大きい。してみると、江戸時代まではこの集落の建物の多くは、神仏習合にもとづいた祈祷と修験のための堂舎を兼ねた宿坊だったのではないかと見られます。修行中の修験者=山伏だけでなく、外部から一般民衆の講(信者集団)も受け入れていたはずです。
  ところが、明治維新の神仏分離令や廃仏毀釈政策によって、修験者=山伏や御師という職分=身分は廃絶されてしまい、神仏習合にもとづく修験場の宿坊も廃止されてしまいました。戸隠や小菅では寺院の宿坊は廃絶され、伊勢神宮でも御師の宿坊は破却されました。

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