■国道下の水路トンネル■
十二兼駅の近くにも小さな集落がありますが、十二兼の本来の中心集落に行くためには、駅から500メートルほど北に歩いて、国道19号の真下を流れる水路に沿ったトンネルをくぐらなければなりません。
この水路は熊野神社の脇を流れ下る沢で、「熊の沢」と呼ばれているようです。古くは「熊野沢」と記されたかもしれません。十二兼の東に迫る尾根には熊野社跡があり、その背後の峰は古代から熊野信仰による山岳修験場だったと見られます。そのため、この尾根の南側の鞍部から流れ出る水路が熊野沢と呼ばれるようになったものと思われます。
十二兼駅から歩いてきた道を振り返る
この大きな木の下の谷に水路トンネルがある
■十二兼という不思議な地名■
十二兼という集落にはいくつもの深い謎が付きまとっています。まず「十二兼」という不思議な名称は何を意味するのか。次いで、よりによって崖の上の険しい場所になぜ、いかにしてに集落が営まれてきたのか。さらに、旧中山道はなぜ難所のこの村を通る経路となったのか。
ほかにも歴史地理の謎がいくもあるのですが、この3つの大きな謎を頭に置きながら、この集落をめぐることにします。
日本各地にある熊野神社とは、熊野三山または三所権現――熊野川を御神体とする熊野本宮大社(本宮)、滝を御神体とする熊野那智大社(那智)、岩山を御神体とする熊野速玉大社(新宮)――の勧請を受けた神社を意味するそうです。古来、大和王権や公卿の熊野詣でとか、有力貴族による荘園の寄進、各地に熊野権現の威光を伝達して歩いた熊野先達の活動をつうじて全国に熊野信仰が広まって、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国いたるところに建立されました。
熊野三山を中心とする熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現に加えて、さらにほかに9つの権現――如来や菩薩、仏神の化身としての神々――が祀られていて、十二所権現(十二社)とも呼ばれています。
権現の前に「所」をつけるのは古い修験道では、自然信仰の風習によって山や川などの自然物としての場所そのものを神の「よりしろ」として崇拝したからでしょう。思想史的には、仏教思想によって権現として定式化される以前に、自然物・場所が神が宿る場としてる崇拝=信仰の対象になっていたのです。
というわけで、熊野信仰には「十二所」というものが結びついているのです。そして、この集落には熊野社があって、熊野三山を含む十二所権現が合同して祀られてきました。
これで集落の名称のうち「十二」という部分は「十二所権現」として理解できます。では、兼(がね)という部分はどういう意味合いなのでしょうか。これは当て字で、本来は帰属関係を表す格助詞「が」と「根/嶺」が合わさった語のようです。そうすると、「じゅうにがね」とは、「熊野三山を含む十二所権現が祀られた尾根または峰」という地名を意味しているわけです。
この一帯の険しい峰は、古来から熊野信仰にもとづく山岳修験の行場だったのではないでしょうか。もちろん、9世紀に天台や真言によって密教が体系化されるよりもずっと古い山岳信仰と修行の場だったのです。熊野社を祀り、修験者たちの修行と生活の拠点だったがゆえに、十二兼と呼ばれるようになったのです。
■失われた修行=信仰の場■
原始的な自然信仰のひとつの形態として熊野信仰が木曾路におよんだのは、9世紀よりも前だったと見られます。古代に拓かれた官道、吉蘇路/東山道またはその脇道は、あまりに険阻な木曾谷では木曾川の氾濫や土砂崩れによって容易に荒廃しがちなものでした。ゆえに、開削建設と荒廃・廃道が繰り返されたようです。
しかし、聖武天皇による国分寺・国分尼寺の建立の政策が進展し、さらに東大寺と廬舎那仏(大仏)の造立が計画されると、建築材としての森林資源(木材)はもとより、銅や金銀などの鉱物資源尾探索のために行基が率いる山岳信仰の修験者たちが山岳高原、深山幽谷を探索して回るようになったはずです。
街道脇に石垣で縁取られた畑地
家並みの間に割り込んだ畑作地
●この辺りに立場跡があったそうだが、道路の整備などで遺構は消滅してしまったらしい。立場とは、もともとは馬方や牛方、歩荷役たちが立ったまま休憩する場所だったが、やがて簡易な茶屋が設けられたりした。街道人足立が集まるので、情報交換(噂の伝達)の場となったという。
探索の手は険阻な木曾谷にもおよんだでしょう。そして、与川渓谷や十二兼の辺りは――森林や鉱物資源探査も兼ねて――密教修験の場として注目され、熊野権現社(十二所権現)が勧請・創建され修行の拠点となったと見られます。修験者たちの山岳探索と回行修行の基地ともなったのではないでしょうか。
原始的な神仏習合風習のなかでここに集落(修験霊場)が建設されたと見られます。十二所権現が祀られた高台尾根と背後の山並みは修験者たちの生活の場となったでしょう。これがこの集落の起源です。
この集落は山間にただひとつ孤立してわけではなく、もっと開けた盆地をなす妻籠や福島、野尻、須原などの近辺にも修験の拠点や都との中継補給拠点が建設されたでしょう。
やがて鎌倉~室町時代になって古中仙道またはその前身の連絡路がつくられるさいには、これらの山間の集落を結ぶ経路として開削されたものと見られます。戦国末期から江戸時代初期にこの経路は中仙道となり、険阻な山中にある僻遠の集落、十二兼も街道交通の中継拠点となりました。
しかし明治維新で神仏習合の伝統が破壊され、修験者の身分も廃止禁圧されるようになります。明治政権のもとで文明開化への道をひた走るようになると、古くからの修験の拠点は経済発展の道から取り残され、消滅していったのではないでしょうか。
北端の家の作業屋は木組み細工の水車の工房
道を挟んで向かいには石仏群がある
■村での出会い■
十二兼の高台北端の「花戸」という屋号の家のお爺さんと知り合うことができました。倉庫を工房にして木組み細工の水車を製造しているそうです。
釘を全く使わない、貫などで組む実に精密な造りの小型水車で、顧客の要望に応じて、木工だけで交差軸の歯車を組み合わせて、模型の粉挽杵や発電装備を組み立てています。
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