■木曾谷の桟(かけはし)■
三留野宿を出て旧中山道を北に進み、木曾川の縁に出ると、そこには巨大な峡谷しか見えません。川岸は、木曾川が両岸の山並みを削り出してつくった崖です。谷間には急峻な斜面しかないのです。
江戸時代の土木技術では、この谷間に幅2尺の細道を開削できなかったそうです。堅い花崗岩質の岩盤を削ることができなかったのです。しかし、それでも徳川幕府が管轄する公道として、人が通り、すれ違うことができるほどには道幅を確保しなければなりませんでした
険しい山腹には鉄道線路は1本しか建設できない
小さな沢には清冽な水が流れている。旧街道はこれを渡る。
そこで、無限にある山腹の木を切り倒して蔦や葛の蔓で平たく束ねて、立木や岩に結びつけて狭い道幅を補って通り道としたのです。木曾の桟というのは、このような桟道を表す言葉です。もちろん、狭い沢谷に架け渡した橋もありました。
現在の舗装された明治以降の中山道よりも、かなり低いところを往く桟道もありました。ダムによる流水量の調節がまったくできなかった時代には、大雨が降ると、木曾川の水位は一気に高くなって、縁の崖にしつらえられた桟道を飲み込んでしまいました。
危険な道はただちに通行止めとなり、木曾川やその支流の沢を渡る小径も川止めとなり、それが何日も続くことになります。三留野から野尻までの中山道は、木曾谷の典型的な地形のなかにあります。
そのため、本来の中山道の迂回路として、三留野宿から三留野城山の東側の谷間から与川の渓谷を通る「与川道」が開削されることになりました。古くからあった樵やマタギ、山窩の人びとの杣道あるいは獣道をもとにして開削したものでしょう。
三留野から与川の上流部まで進むと、そこから根ノ上峠を越えて二反田川の源流部の谷間に出て、二反田川渓谷を野尻まで降りていくことになります。
■中川原峡と柿其渓谷■
藪原から三留野までの木曾谷の地形と中山道との関係をここで見ておきましょう。この部分は木曾川の峡谷のなかにあります。藪原から中央アルプスの稜線を挟んで北側の奈良井宿は、奈良井川河畔で、これは千曲川=犀川水系の峡谷に属します。
さて、藪原以南の中山道は木曾川が刻んだ深いV字峡谷のなかを川沿いに往く道です。峡谷の険しい崖や急斜面にへばりつくように通っています。
この街道沿いの宿場は、木曾川が大きく蛇行することで山腹や山裾を浸食し、土砂を堆積して形成した幅の広い谷間につくられています。街道の両側に街並みをつくることができるような、比較的に傾斜のゆるい盆地にしか宿場街は建設されようがなかったのです。
藪原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野の各宿駅は、そういう地形が立地条件となりました。妻籠と馬籠は、美濃への出口の比較的に緩やかな谷間につくられました。南向きから西向きに大きく蛇行する木曾川から離れた、その支流の標高差が小さな谷間にあるので、この2宿は例外的な立地条件です。それでも、深い山のなかに位置しています。
中川原峡に突き出た岩の上に八剱神社がある
柿其橋の西袂が八剱神社の境内神域だ
さて、三留野宿から旧中山道に沿って北上し、木曾谷を北向きに下っていくと国道19号に合流します。古い街道は、国道と鉄道の建設にともなってそれらの下に埋もれてしまったようです。急傾斜の谷間のなかとて、ほかに道がないので、国道を北上して柿其入り口まで歩きましょう。
木曾川に支流が合流する場所では、木曾川の峡谷と支流の渓谷とが合わさって、小さな平坦地や扇状地が形成されています。柿其川と木曾川の合流点もそうなっています。そういう場所には小さな集落が形成され、人びとの営みの空間がつくられています。
柿其橋の周りに広がった谷間は「中河原峡」と名づけられています。上松の「寝覚の床」ほどの規模には及びませんが、中河原峡には大きな花崗岩が集積した美しく壮大な河岸の景観があって、「南寝覚」と呼ばれています。
ここで、中山道から外れて、中河原峡から柿其渓谷を遡って、美しくも険しく厳しい自然景観をめぐってみますが、その探訪記は別の記事として掲載します。
今回の旅の記録は、もう少し先まで中山道を辿って、十二兼の地形と集落の探索を紹介するものとします。
■十二兼の駅と集落■
中河原峡の柿其橋から北に800メートルほど進むと、JR中央西線の十二兼駅に到着します。地形の関係でこの駅は、古くからの中心集落から400メートル以上南に離れた、谷の傾斜の少し緩やかな場所に立地しています。もっと集落に近い場所には、傾斜が険しくて鉄道も駅も建設できなかったのでしょう。
というわけで、私たちは駅から500メートルほどの道のりを歩いて、古くからある十二兼の村落をめざします。そこは野尻城山の西麓の急傾斜地の高台です。この集落の探訪記は次回に回します。
鉄道の東側の急傾斜地に十二兼の集落がある
十二兼もまた深い山峡のなかにある
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