▲大社通りの先に秋宮の杜が見える
春宮方面から旧中山道を歩き、「まるや」の辻を右に曲がって、儀象堂の前を抜けていくと、高札場の脇で大社通りに出ます。そこから500メートルほど進むと、大社通りは緩やかに左に曲がります。その手前で分岐する小路が旧中山道です。
ほぼ真西に直進する感じの小路です。現在の国道20号線が建設されるまでは、この道が下諏訪から岡谷・塩尻方面に連絡する幹線だったようです。
小路に入ると、いかにも古くからの街道沿いの街だなと感じる趣があります。歩き出すとすぐに、街道の左脇には魁塚公園を見つけることになります。
ここは、明治維新の軍事闘争での悲劇――冤罪で処刑された「魁隊」の名誉回復――を記念する場所です。ここに祀られた相楽総三らは、討幕をめざす官軍の最前衛の先発隊として中山道を東進しながら、官軍派に対する民衆の支持を固めるため、民衆の要望を受け入れて年貢免除を約束しながら戦端を切り開いていきましたた。
ところが、明治政府中枢は、民衆の要求に沿った変革を進めようとする相楽たちが疎ましくなり、偽官軍を名乗る賊軍として捕縛・処刑してしまいました。後年、その名誉が回復され、彼らの慰霊と名誉回復を記念するために、この場所に記念碑や慰霊碑群が立てられました。
▲中山道と大門通りとの交差点。信金の向かいに立つ大鳥居の先に春宮がある。
▲緩やかな曲がり具合がいい感じ
さて、そこからわずかの距離で、中山道は諏訪湖北岸から春宮に向かう大門通りと交差します。大鳥居の向かいにある諏訪信金の南側に石造りの常夜灯(大石灯籠)が立っています。
史料によると、江戸時代には大石灯籠の近くまで諏訪湖の湖面ないし湿地帯が来ていて、水量が多い時季には波が打ち寄せていたそうです。大石灯籠は、湖面を渡る舟運や漁師のための灯台として役立っていたのかもしれません。
湖岸の中山道から北に向かう春宮参道が大門通りだったというわけです。鎌倉の若宮大通りと似た趣だったのでしょう。
▲旧中山道と大門通りとの交差点(奥が西)
明治以降、昭和期まで諏訪湖北岸では、中山道以南の干拓や農地開拓が進められました。今ではほとんどが市街地化していますが、1960年代までは諏訪湖北岸には広大な田畑が広がっていたのです。水田もありましたが、標高750メートルを超える高原ですから、その多くが寒冷な気候に強いリンゴ栽培に利用されていました。
かつて下諏訪町は、有力なリンゴ栽培地帯だったのです。
▲諏訪湖北岸に残るリンゴ園▼
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