来迎寺は、京都の知恩院を本山とする浄土宗のお寺です。
引接山聖聚院来迎寺というのが寺院の正式な名称です。寺にまつわる史料では、南北朝期の14世紀末にここに聖聚院という寺院があって、その後、来迎寺という名称に変わったとか。
しかし、それよりも以前の来歴を記した史料はないようで、草創や由緒はわかりません。
それがやがて16世紀半ば頃に、栄海上人が衰微したこの寺を再興したそうです。そのさいに開基役を担ったのが、諏訪大社下社の大祝家門の一族、諏訪右衛門尉だといいます。
この寺の北東の山腹高台には、中世に金指家が築いた城砦があり、この寺は城砦から続く斜面の崖下に位置します。ということは、城の南西の鬼門を鎮護する寺院だった可能性もあるわけです。
◆和泉式部に関する言い伝え◆
境内には、有名な銕焼地蔵菩薩を納めてある地蔵堂があります。
この地蔵菩薩には和泉式部にまつわる伝説が残されています。和泉式部といえば、1000年ほど前に宮中で活躍した和歌に秀でた美貌の才女。大江雅致の娘ということになっています。
伝説では、大江雅致が下諏訪に旅したときに才能と美貌の童女を気に入って養女にしたとか。
その童女は幼名を「かね」といって、湯屋を管理する役人宅に仕え、ここの地蔵様を深く信仰していました。ところが、仲間に妬まれて告げ口され、役人の妻にひどく折檻され焼け火箸で額を傷つけられてしまいました。
かねが地蔵様の足元に伏して泣き悲しんでいると、額の傷が消え、代わりに地蔵様の額が傷つき出血していたとか。大江雅致は地蔵様に救済されたかねを気に入ったのです。
明治の初期には、この寺は学校教育の場となっていました。そのせいか、恒例の仏事のほかに、月例の集いが盛んにおこなわれています。毎月1日には写経会、14日には御詠歌の学習会、24日には地蔵奉賛会の研修、月末には裏千家指導で伝声の茶道教室が開かれているとか。
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